2011年6月のイナバ化粧品店 稲葉ママの誕生日の様子
2011年6月11日(土)のイナバ化粧品店の店内
ママの誕生日に全国から贈られた花で埋め尽くされた店内です。ママも「これは何の花?お花の名前がわからないほど珍しいお花がいっぱい!みて!みてっ!」なんてとっても嬉しそうでした。沢山のファンの皆様に感謝!
2011年6月11日(土)のイナバ化粧品店の店内
ママの誕生日に全国から贈られた花で埋め尽くされた店内です。ママも「これは何の花?お花の名前がわからないほど珍しいお花がいっぱい!みて!みてっ!」なんてとっても嬉しそうでした。沢山のファンの皆様に感謝!
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美作大学地域生活科学研究所技術交流プラザUD研究会では、この度の震災の復興支援として、"おしゃれでカンタン着脱「ミポロ」"(ポロシャツ)を、通常価格3,800円のところを特別価格の1,000円で販売いたします。
売上金は全額震災義援金として被災者のもとへお届けします。
是非ご協力ください。
(9月2日追記)皆様のご協力により、完売致しました。ありがとうございました。
1F特別企画展のご案内
○ 「和時計-江戸のハイテク技術」展
2011年5月28日(土)~2011年6月26日(日)
鉄砲の伝来とともにヨーロッパから日本に伝わったものに機械時計があります。
江戸時代、季節により一刻の長さが変化する「不定時法」に合わせて作られたのが和時計です。
和時計のもつメカニズム、素材、意匠などは、現在の日本の「ものづくり」につながる「江戸のハイテク技術」でもあります。今回は、時の記念日にあわせ、和時計の持つ美しさや魅力を存分に楽しんでいただける企画展です。
ギャラリートークも予定しています。
6/5(日)13:00~ 和時計の所有者である安藤正道氏による和時計の解説
M&Y記念館1F展示室にて(入館料500円が必要です)
「その町で完結できる映画はそうそうあるもんじゃない!」映画製作関係者の方が言っていた言葉に、この映画の価値を感じます。
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▲チラシ表(↑ぽちっ!) ▲チラシ裏(↑ぽちっ!) |
「沖縄映画祭」に出展する「ホルモン女」の記者会見場にて 【特に印象的だったのは?】 河本準一さん:リオちゃんとのシーンは上司と部下なのでほぼ一緒にいるシーンが多いのですが、僕の顔を見て爆笑するんです。失礼だとおもません?少しのギャグでずっと笑ってくれるのが嬉しくて。 遠藤光貴監督:津山に関わらしていただいて、居酒屋カルチャーで知らない干し肉とかあり、東京でも流行るんじゃないかと思います。 河本準一さん:全国の市でまだまだ知られていない素敵な町がいっぱいあるけれど、その中で津山がこれを皮切りに全国へ発信できたらなぁ~と思います。元気よくパワーが与えられる映画になればいいなぁ~と思います。 |
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| 同時上映
[第3回沖縄国際映画祭出品 作品]津山市姉妹都市:沖縄 県宮古島市作品 一粒の種 ~真太陽の島の大合唱~ |
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| 「橋野食堂」撮影風景 | 「三枝」焼き方の練習風景 | ||
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| 「水島食堂」撮影風景 | 「津山市役所」撮影風景 | 「吉井川河川敷」撮影風景 | |
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| 「総合福祉会館」撮影風景 | 「鶴山公園」撮影風景 | 「高倉」撮影風景 | |
姫路から帰ってまいりました。
「近畿・中国・四国B-1グランプリIN姫路」ではシルバーグランプリを受賞することができました。出展に際してお世話になった姫路実行委員会の皆様をはじめ、応援いただいた皆様、本当にありがとうございました。
河辺上之町(西の桝形)(2011.5)
津山藩は、「百姓村の山上がり」と言われる農地拡大政策を断行しました。中でも、寛文4年(1664)に実施された河辺村の移転は大規模なもので、57戸が対象になりました。農民たちは「しとと原」と呼ばれる丘陵への移転を命じられましたが、その場所は暮らしに不便な上、牛の餌や肥料にする大切な柴草を刈る場所であるため無くなると困ると、藩に訴えましたが聞き入れられませんでした。しかし、農民は土地にかかる年貢を免除する、津山城の草刈を認めるなど条件が整ったことから移転に応じました。現在、この場所は河辺上之町と呼ばれ、東西に石積みの枡形が残っています。
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▲荒神山城跡(2011.5.14)手前はやまなみ街道です。(荒神山123番地の1)
荒神山城跡は、元亀(げんき)元年(1570)に宇喜多氏の武将花房職秀が築城し、わずか24年後の文禄3年(1594)には廃城となった短命な山城です。
本丸を中心とした曲輪の配置は、連郭式と輪郭式の複合したものであり、枡形虎口の存在、瓦葺き建物の存在を示す大漁の瓦、大規模な井戸跡、本丸周辺に認められる石垣など、中世から近世への過渡期のいわゆる職豊系城郭の特徴を顕著に示しています。
嘉吉元年(1441)、山名教清が美作国の守護に任ぜられた際に築城されたものと伝えられています。その後、天正17年(1589)8月、野火によって焼け廃城になるまでの148年間、山名、赤松、浦上、尼子、宇喜多、毛利の各氏が、美作国の制覇をかけて激しい攻防を繰り広げられた舞台ともなりました。
城は岩屋山の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に曲輪を配した複雑な梯郭式の山城で、本丸南に馬場、西南には石橋上や椿ヶ峪砦を設け、更に西には小分城を築き防備を固めていました。本丸東には二の丸を置き、その南には三の丸を配しています。東の谷の固めとしては、12本の竪堀を設けています。大手南斜面に見られる大小20箇所以上の防備のための郭は、美作地方では他に類をみないものです。他に井戸、慈悲門寺跡なども残っています。(2011.5.4)津山の文化財より
▲倉見川広瀬橋付近(津山市加茂町宇野)(2011.5.18)
田植えの終わった田んぼもありましたが、あちらこちらで田植えをしておられました。ここはとてものどかな所で、お訊ねした皆さんも穏やかな方達でした。地元の方にお訊ねすると、「ホタルがわんさか出るときもあるが、今年はすでにダムの放流があったので流されているかもしれない。」とのことでした。