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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,905件の記事が見つかりました。

松本山 千光寺のツバキの花

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 2019年3月20日、津山市にある千光寺のツバキの花を撮りに来たら、住職に「もう、ツバキは終わったよ。」と言われてしまいましたが、境内にはまだ可愛く咲いたツバキの花が沢山残っていたので撮って来ました。そういえば今度は境内の枝垂桜がメインになってきますね。
駐車場の枝垂桜はピンクになっていて今にも開花しそうな勢いです。階段を上がると門の横の枝垂桜は開いているものもありました。

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清瀧寺のツバキ(河面)

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2019年3月16日に清瀧寺のツバキが可憐に咲いているので、撮らせていただきました。
 東寺真言宗 清瀧寺は弘仁十二年(821年)人皇五十二代嵯峨天皇の勅旨により弘法大師が開基されたものと伝えられています。

現建物は寛文九年(1669年)時の城主森忠政侯の寄進により再建。本尊は二十七面千手千眼観世音菩薩。作者は行基菩薩と伝えられ、脇仏の持国、増長の二天は弘法大師の寄作。

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畝の六体地蔵(安井)

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 六体並んだ地蔵が墓地や寺の入り口に見かけられることもある。六地蔵の形式は疫病除けと塞の神信仰の結びつきという説もあるが、その後六道輪廻の信仰の主尊となったといわれる。六体の像の名称や持物・印相・六道への配置は、出典によって諸説があり一定していない。
石造六地蔵は鎌倉時代の末期頃から造られているようだが、寺や墓地に造立されるようになったのは室町時代からとも言われている。
 像容は丸彫り像や舟形光背の浮彫り像を六体並べたもの、一石に六体彫ったもの三体ずつ二石に彫ったもの、また一石一地蔵を彫り六体を並べたものなどが見受けられる。

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修験者の堂・圓満寺

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修験者の堂・円万寺 毎年8月祈祷祭続く
 勝北町坂上の国道五三号線から、北側にわずか入ったところに、カリンの大木が聳える堂が見える。土地の人からは行者堂または円満寺(円万寺)と呼ばれ、かっては苫勝霊場三六番の札所であり、数年前に改築が行われよく整備されている。この寺について「勝加茂史」には、真言宗醍醐派三宝院の末寺円万寺花王院、元禄十一年(一六九八)あるいは天明二年(一七八二)の創立ともいわれ、本尊は如意輪観音と載せられている。
 せんねんの町文化財保護委員会の調査では、木造の役行者像や数体の仏像と鋳鉄製の高さ十二cmあまりの如意輪観世音菩薩像一体があった。この観音の台座には、施主流郷重郎右衛門・全吉左衛門・全株内、冶工作陽柱百済清治郎藤原正邦作の銘があり、施主名などから江戸時代末期ごろの作品と思われる。

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津山武道学園・第22回津山武道祭

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 2019年3月3日に「第22回津山武道祭」が津山総合体育館で催されました。
この武道祭は急速に進む少子化や子どものスポーツ離れを背景に武道人口が減少する中、武道の普及推進と競技者の増加を目的として開催されたものです。多くの小学生が大人を負かして得意気な顔をしたり、武道の楽しさを体験していました。同時に親子で武道体験スタンプラリーも楽しんでいました。
 また、会場内では柔道場でフリーマーケット(11店舗)、玄関前では模擬店(ポップコーン、焼きそば、うどん、コーヒー、フランクフルト)が賑やかに開催されました。

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梅の木神社(羽賀)

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腹痛の神として信仰 病の武将助け祀る
 勝北町羽賀の公会堂横に「梅の木神社」という小さなお社がある。この神社いわれは口伝えで定かではないが、遠く戦国時代、群雄が割拠しその攻防の争いはこの近辺でも繰り広げられた。その頃のある日、戦いに敗れ手傷を負った一武将がこの地へ落ちのびてきたそうである。
 それをこの土地の人が気の毒に思って懇ろに介抱したが、その甲斐もなく亡くなってしまった。人々は、哀んで手厚く葬り、小さなお社を建て一本の梅の木を植えて供養したと言う。

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千手観音菩薩(大吉 五穀寺)

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 変化観音の一つで千手千眼観自在菩薩といい、千の慈眼・千の慈悲を持って衆生を済度するという。普通は胸前の合掌する両手を除き、左右ニ十手ずつの四十手像で、掌中に各一眼をもつ。
 一手はよく二十五有界の衆生を救うとされることから、四十手で合計千手となる。また十六手のものもあり、それらの手にはいずれも仏具類を持ち、頭上には一面・九面・十一面または二十七面のものもある。
 千手観音は十一面観音とともに奈良時代より庶民の信仰を集めている。石仏としては私達の身近に見られるこの仏は、手の数も頭上面も儀軌(この場合は仏像彫刻上の約束事)によらないものが多い。
 なお五穀寺にある石仏については十一面千手観音菩薩と思われるが、見る人によっては十一面観音菩薩と思われるかもしれない。

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茅町

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 西今町の西に連なる西寺町の更に西に接した町で、貞享年間(1684~1688)以前は茅屋町と書かれています。
 寛永以降商いを営む者ようやくここに移住し茅町と称す。しかしながら市街に属するを得ず、寛文(1661)中、安岡町の人、渡邊藤左衛門義信の請願により、始めて市街に列し、地租を免ぜられる。貞享3年(1683)茅町に改む。(『津山市史』第3巻より)
 もともと茅町は、城下の東西の一番端につくられた町といわれています。東の端にも萱屋町がありました。
 若宮神社は神様のお子神であり、碑に「元禄13年再建」と刻まれています。境内末社には亥子神社があり「いのこ石」が祀られています。多賀神社は長命延命の神として知られています。東側に樹齢約400年の大木のケヤキがあります。吉井川改修以前の堤防に植え付けられていたといわれています。

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鬼子母神(西中)

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 鬼子母神は、もとは幼児を捕えて食べる悪鬼女であったが、自分の子供が奪われたことから改心して、のちには子女を庇護する善神となった。
 生んだ子供が五百とも千ともいわれ、このことから出産・育児の神としての信仰がある。その像容は諸児を抱き従える天女の姿であるが、時には鬼神を示す場合も見られる。
 鬼子母神は左手に一子を抱き、右手に吉祥果を持つ立像が多く見られる。

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西寺町(西・東)

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西寺町西   
 城下町の建設期には武士や町人など、多種多様な宗派の人が集まり住むことによって城下町が出来ました。そうした人々の必要に応じて、津山藩は城下町の東西の端に各宗派の寺院を集めて寺町を作りました。東の寺町が丘陵上に配置されたのに対して、西寺町は町人町から続く主要な街道に沿う形で寺町が形成されました。高い土塀と豪壮な建築物が建ち並ぶ寺町は、城下町の防衛施設と位置づけられました。(『津山市史』第3巻より)
 寺町には立派な救護施設津山広済寮(定員80名)があります。平成23年(2011)には耐震建物に建て替えられました。
西寺町東 
 戦後配給物資を配分するために、町内会が分割されました。

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