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河面 農耕と深く関わる二つの地神様

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▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
 河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。 
 「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
 また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
 「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
 この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
 ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
 地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
 農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
 なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材

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河面 国分寺台地を潤した牛の子用水

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2012.4.21
 牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
 国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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瑠璃山日光院 眞福寺(美作国七福神)

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真福寺(2011.6.24取材) ▲写真2012.4.17取材
 瑠璃山日光院 眞福寺の略歴と沿革
 当山は、天平12年(740)聖武天皇の勅りにより、太古行基菩薩開創し御本尊薬師如来を奉安され、始めは槍原地内に在って萬福寺薬師院と称していたが、現在地へは寛永年間(1624)移築され眞福寺日光院と改めたがその後、付近の火災の飛火に遭って全焼し寛文8年(1668)檀信徒より木材並びに労務の奉仕等により建立されたものです。
 初代清誉上人より今日に至る迄、檀信徒聖霊香華燈明を掲げ、真言密教の寺として法燈を護り伝えて参りました。爾来、375年余の星霜を重ね近年に至っては特に老朽化し、平成5年に議題になり平成7年檀信徒の浄財等により改築を決定した。西暦2000年の節目に完成する。(情報提供:真福寺)美作88カ所霊場会のホームページ

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群

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田熊 八幡宮神事場と南参道口の石碑群(2012.1取材)
 田熊西山集落の南側にある丘陵上の平坦地は、八幡宮の神事場となっている。神事場とは、お御輿のいわゆるお旅所のことである。祭礼のとき、田熊八幡宮を出たお御輿は、左折して西ノ谷集落に入り、南側の神事場参道の坂道をいっきに上って、ここで神事を催した後で、休憩をしている。神事場は、今でこそ片隅に石垣の御輿台を残すのみで、全体が小グランドのようなゲートボール場に様変わりしているが、戦前は、南側の参道と共に松並木の大木に囲まれた草原で、祭礼に多くの幟(のぼり)が立ち並び、神聖さを感じさせられる場所であった。
田熊八幡宮が、あまりにもけわしい坂道を上っていかねばならぬため、足の弱い年寄りや婦人・幼児たちのとって、神事場がお祭りのお参り場所であった。そのため、ここで輿練りなど盛大に神事が行われたことから、大勢の人が集まるようになり、戦前は、出店も数軒構えられるほどに賑わったそうである。

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田熊 参道石碑群(3) 神變大菩薩等修験道碑

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田熊 参道石碑群(3) 神變(しんぺん)大菩薩(だいぼさつ)等修験道碑(とうしゅげんどうひ) 
 神事場南の石碑群の中で、目立って大きいのが、東側基壇上の2つの修験道碑である。この石碑は、本来もう少し東に位置していたのが、昭和の初め、家の建築に際して現在地に移されたそうで、文政6年(1823年)のものである。石碑には次のように刻まれている。

(梵字)神變大菩薩
文政癸未年 願主 福島譽次
村々 惣講中

(梵字) 大月如来
(※梵字は○印の中にある) 
 神變大菩薩というのは、修験道の開祖、役行者(役小角)の諡名である。
 寛政11年(1799年)の役小角一千百年御遠忌にあたり、光格天皇から時の聖護院にこの諡号が与えられ、以後、この別名で祀られることが多くなった。(2012.1取材)

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来

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田熊 参道石碑群(2) 小椋里右衛門碑と大日如来(2012.1.取材)
 題名に揚げている小椋里右衛門碑というのは、數士のとなのる門人(弟子)たちが建立した、小椋里右衛門の顕彰碑のことである。この碑文は、次の通り。
(塔) 発起 世話方
小椋里右衛門一清碑
植月北村
鳥家音五郎一尊
(台座) 敷士
門人中
誌之
(裏)惟時 安政三丙辰歳九月吉日
辞誓 (万葉仮名で句が刻んであるも、文字不明につき不祥)
(部分的には、"算礼に○○と きくなり 数のたみ"と読める。)
 小椋里右衛門は、いわゆる芸名に相当する贈名(諡)であって、本名は久常里四郎と名乗り、近くの勝加茂村安井の濃野重蔵次男と言われている。久常家より嫁がせた嫁が間もなく里帰りしてしまったため、里右衛門は、結果的に当地に来て婿になったようで、久常姓を名乗った。近くに里右衛門の墓があり、墓標には、久常里四郎 74歳明治11年(1878年)9月3日没とある。
 若くして他界した娘の墓には、里右衛門娘と記入があり、里四郎と里右衛門とが同じ人物であることがはっきりと分かる。
 田熊には、算仙と言われて名高い和算の大家、中村周介・嘉芽市が輩出していることから、和算を門人たちに指導していたのではないかと思われたが、地元では、算盤の先生であったと伝えられている。どこでどのような私塾を開き、植月の鳥家音五郎以下門下生に教えていたのか、その活躍は不明で、今後の調査に待つものである。

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田熊 神場場参道の石碑群(1) 孝子彌三八傅

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 江戸時代は、儒教の教えに基づき、忠義・孝行が最も大切な美徳とされた。幕藩政治の元で民衆を教化するため、為政者は、忠誠や孝養を尽くした代表的人物を表彰したり、褒美を取らせて賞賛し、他の範とした。後世に長く伝えるため、そのことを石碑に託して建立したため、今日、こうした顕彰碑を時折見かけることがある。「孝子彌三八傅」の石碑もこうした事例の一つである。
 彌三八が、母親の望むまま、足の悪い母親を背負って殿様の行列を見に行ったところ、殿様の目に止まり、孝行息子として褒められ、褒美をもらったと、地元では伝えられている。

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑

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広野小周辺 街道べりに安置の六部の碑
 広野保育園の南側で、南北に通じる市道福井線と、東西の旧真加部街道の接点に位置する道ベりに、地元の人が言う六部の碑が祀られている。
 六部の碑とは、正しくは全国六十六部廻国供養塔のことである。世の平穏や民生の安定を願って、全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて廻る遍歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に大衆化して、村々を廻って戸口毎に拝み米や銭の御布施をもらって歩く、遍路姿の在家の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは廻国道中に村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりに、こうした供養塔を建立した。今日に残るあちこちの供養塔に六十六部の記名がある所以だが、近くでは、清瀧寺仁王門そばの廻国供養塔とおなじ類いである。

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旧広野村戦没兵士の慰霊塔

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旧広野村戦没兵士の慰霊塔 
 広野小に隣接する小村池の東南隅に当たる山麓に、市道曲がり角に面して、広野地域の慰霊塔が祀られている。
 各地域に見られる忠魂碑に相当するもので、いわゆる御国のために、戦争で犠牲になった広野村当時の出征した兵士の御霊を祀っている石塔である。
 この慰霊塔には、日本の近代化のなかで惹き起こした戦争のために、広野村から出征し、戦死・戦病死した兵士113柱の慰霊が納められている。戦没者の内訳は、日清戦争(1894~95年)2名、日露戦争(1904~05年)6名、満州事変(1931年~)日華事変日中戦争(1937年~)太平洋戦争(1941~45年)という15年戦争の105名である。
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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標

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河面 旧街道の要衝を示す萬屋(茶店)と道標(2012年1月28日取材)
 自動車の通行を考えない昔は、山坂をいとわず、ほぼ直線的な最も近いところを道筋としていた。農山村地域に残されている旧道の山道は、たいていは上り下りの変化は大きいが、最短コースを考えた道筋であった。
 加茂谷や日本原を受けて、近長方面から大崎方面(播州街道)に抜ける南北の道や真加部・植月方面から田熊を経由して河辺方面(備前街道)に至る東西の道は、河面の下山地域を通過していた。とりわけ、勝田町真加部から勝央町を通って河辺・津山と結ぶ道は、津山真加部街道として、年貢米の輸送、商人の往来、寺社詣での主要道路として栄えていた。河面でちょうどこの接点に相当している場所が、下山地区の吉田家(吉田富之助さん宅)であった。江戸時代、吉田家は、萬屋の屋号をもち、茶店を営み繁盛していた。参詣にやって来た津山の殿様も、必ずこの萬屋に立ち寄り休憩して、威儀を正して清瀧寺なり広山八幡宮にお参りしたと言われている。当時は、河面の集落も吉田家周辺の丘陵上に多くあったということである。 

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