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2012年11月14日の衆楽園のモミジです。

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2012年11月13日・14日の衆楽園の紅葉の様子です。小雨が降っていたり、晴れたりと忙しいお天気でした。途中でであった中道中の生徒さんが、園内の句碑などを探しながら歴史の勉強をしておられました。過去の取材

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青柳神社(津山市加茂)

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青柳神社
御祭神 天照大神荒魂 金山彦命 天日筒男命
例大祭 十月十日
中祭  春祭四月 夏祭七月 冬至祭十二月
由緒・沿革
 本神社の創建由緒は不詳であるが、古人伝え云ふ。
天平勝宝年中(749~56年)直金を掘収したが失敗し、片金山の柳神社に祈願したところ、金山彦命、天日筒男命を奉賽せよと告げられ、柳神社を相殿として宮殿を造り、社号を中山神社としたのが其の起源である云われている。
 又、美作六十六社の一社であり、寛文8年(1668) に再建したとも云われている。「作陽誌」にも中山神社とあり外に国司大明神が祭られていたと云ふ。
 其の後、明治6年(1874)青柳神社と改称し、同9年、金山彦命、天照大神荒魂、天日筒男命を合祀して村社に列せられた。明治42年に大字青柳内の水分神社、経津主神社、伊勢神社、滝神社を合祀した。大正2年、時の流れに依り、上加茂神社(現千盤神社)に合祀された。
 それ以前は現在地より上の段に双殿として奉賽されていた。現在の本殿は其の一つの宮殿であった。それ以来、遥拝所となり昭和24年再び旧宮山に遷座奉賽される。
 平成6年10月、本殿、拝殿等老朽化が激しく、敷地を新しく造成し、本殿の修復、上屋・拝殿を氏子の浄財寄進等により、造営する。
平成9年6月吉日 氏子中  (2012年9月20日取材)(文:案内板より)

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加茂神社には崇道天皇の御陵がある。

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加茂神社由緒
鎮座地 津山市加茂町公郷字菊水山1,399番地
御祭神 味鋤高日子根命/伊弉諾命/大山咋命/伊弉册命
配祀  大巳貴命/崇道天皇
祭日  大祭 例祭 10月第2日曜日/祈年祭 4月29日/夏越祭 7月25日に近い土曜日/新穀感謝祭 11月25日に近い日曜日
本殿  流造
末社  八幡神社、御先神社、美保神社、英霊神社、養老神社、若宮神社、天満神社
 本社は、旧杉大明神と称し勧請年月興廃の沿革等不詳なりといえども、古昔より古老の口碑によれば往古苫北郡と称する時一ノ宮と尊崇される。桓武天皇の弟早良親王の御陵あるを以て崇道天皇と改称する。
 明治6年2月加茂神社と改称し、尚、能野神社、元公郷上分字高場に、又、日吉神社公郷下分字日野目に古昔より鎮座ありしを明治42年5月2日本神社に合祀した。昭和7年7月7日雷火の為炎上し同8年4月再建立する。昭和43年3月26日、加茂町指定文化財に指定された第一号秋草双雀鏡は青銅の鏡(平安時代)で境内裏山から明治15年に発掘されたものです。加茂町観光協会協賛 (看板より)2012年8月22日取材

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福井 庶民に根づいた修験道信仰役行者の碑

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 福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
 この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
 石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
     明治六年癸酉   福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
     九月九日      講 中
 これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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上賀茂神社(津山市原字荒神)

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 勝加茂原字荒神にある。祭神は火産霊神・素戔鳴命・味鉏高彦根命・下照姫命をまつる。原村往古より勝加茂西上(現上村)鎮座の若王子権現を産土神としたが、明治十年その氏子を離れてもともと荒神社のあった地に社殿を建立し、旧来の荒神社の祭神に西賀茂神社及び朝吉神社の分霊を勧請合祀して、上賀茂神社と号した。(歴史めぐり資料より)2012年7月8日取材

「美作神社資料」には、「和銅元年鎮座、大永五年山名太郎左衛門常清の社殿再興、正保七年以来氏子よりその費用を献進する」とありますが、その拠るところが明確ではありません。「勝北町誌」より

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福井 輝かしい修行記念の修験道石碑

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 福井から大崎方面にぬける県道べりに、土居の公会堂があるが、その公会堂の道を隔てた西側の一区画は、真宮神社の鳥居や、よく手入れされた花壇・樹木があり、小公園らしくなっている。その場所の北側一隅に、次のような文字の修験道に関わる輝かしい修行記念碑が見られる。
(梵字)大峰山三十三度供養
    先達 安藤栄治郎
明治5年 壬申歳  世話人 安藤頽蔵
  8月 吉祥日    同   安藤與平
 この趣意は、修験道修行のため大和大峰山の登り続けた先達の安藤栄治郎が、ついに満願供養の33度の偉業を達成したことを讃え、安藤頽蔵と安藤與平が世話人となって、明治5年(1872年)8月の日柄の良い日にこの石碑を建立し、供養にしたと解せられる。
 奈良県吉野から大峰山は、古来よりの修験道修行の聖地である。
 7世紀末、修験道の開祖役行者(かいそえんのぎょうしゃ)はここを修行の地と定め、巨大な磐座のある金峰山(山上ヶ岳=1719m)で、苦行の末に金剛蔵王権現を感得したと伝えられている。以来、現在に至るまで、修験道修行の本場となっており、江戸時代のころから一般庶民も講を結んで登山するようになった。講の先導や世話役にこの先達が活躍した。

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河面 農耕と深く関わる二つの地神様

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▲花屋・高畑の田んぼの中の地神様
 河面の上原集落に上がる三叉路の所に、コンクリートで固められた台座の基に、むすび型の石碑で地神様が祀られている。 
 「地神」と大きく刻まれて、川石の裏面に「大正5年4月建 上原講組」と建立した年代を明記してある。(大正5年=1916年)
 また、河面には今一つ、小字の花屋・高畑の田んぼの中で、かつて広山八幡宮の御神輿が立ち寄り神事が行われていたと言われ、いまでも幟が立てられる旧神事場に、ほぼ同じ大きさの地神様が祀られている。
 「地神」と刻まれた丸い川石の裏面に、これまた、「大正4年9月 高畑花屋」と明記されており、これら二つの地神塔が、ほぼ同時期にできたことが分かる。
 この地神様は、百姓の神様として広く各地で祀られている。
 ルーツは、平安以後広まった地蔵信仰の一形態であり、「地蔵菩薩本願経」の内の「地神護法品11」に「堅牢地神の守護を受けて地蔵菩薩を供養すれば土地が豊かになり、家が永く安らかになるなどの御利益を受ける」と説かれていることなどに由来している。たびたび凶作飢饉にみまわれた江戸時代半ばころから流行しだし、明治~大正ころ急速に建立が流行したようである。河面の二つの地神塔ができた背景には、大正3年(1914年)の干害や、4年の暴風などによる凶作が考えられる。地神信仰は、構造改善を終えた現在においても建立されており、農村地域に根強い信仰が続いている。
 地神様の祭りは、本来、春秋の彼岸の中日に最も近い戊の日に当たる社日に行われていた。この日は、地神講、社日祭と呼んで、田畑に入らない、土をいじらない日として農作業を休み、部落の当番が世話をして地神様の祭りを営む。地神塔には、注連縄を張り、酒や米をお供えをし、お祈りの後には、各戸から集まった皆で、簡単な飲食をする習わしであった。
 農作業の形態が大きく変わった現在、上原地区の事例で言うならば、彼岸前後の休日の日、道直しや溝掃除の共同作業の後、地神様をお祭りしている。疲れなおしをかねて、その広場で簡単な会食をしている様子となっている。
 なお、花屋の地神様のある旧神事場の二つの小祠は、部落・株などを守護し火伏の役を果す三宝荒神様と、地鎮の神様を八幡祭礼日に合わせてお祭りしている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年5月31日取材

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河面 国分寺台地を潤した牛の子用水

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2012.4.21
 牛の子用水は、河面地域にある水田の灌漑用水であるが、かつては、河辺地区の国分寺台地の水田を潤していた。楢にかかる桜橋の約200m下流にある加茂川牛の子渕から取水し、近長~河面~河辺井ノ口~国分寺~瓜生原と、延々およそ7,500mに及ぶ、近郷まれに見る長大な用水路であった。
 国分寺に至るこの用水路は、明治8年に着工し、村中総動員の突貫工事で、明治9年の(1876年)5月に竣工し通水を見た。当時、勝南郡国分寺村・瓜生原村は、池水や天水に頼っていた高台のため、水不足になやみ度々干害を受けた。地租改正令の実施に伴って年貢米から現金によって定額の地租を支払うようになったため、干害の被害は重大であった。関係者が協議を重ね、近長・河面村の協力支援を受けて、この大工事に着手したのであった。今も、これを記念して「明治新渠之碑」という記念碑が、国分寺境内に残されている。(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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瑠璃山日光院 眞福寺(美作国七福神)

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真福寺(2011.6.24取材) ▲写真2012.4.17取材
 瑠璃山日光院 眞福寺の略歴と沿革
 当山は、天平12年(740)聖武天皇の勅りにより、太古行基菩薩開創し御本尊薬師如来を奉安され、始めは槍原地内に在って萬福寺薬師院と称していたが、現在地へは寛永年間(1624)移築され眞福寺日光院と改めたがその後、付近の火災の飛火に遭って全焼し寛文8年(1668)檀信徒より木材並びに労務の奉仕等により建立されたものです。
 初代清誉上人より今日に至る迄、檀信徒聖霊香華燈明を掲げ、真言密教の寺として法燈を護り伝えて参りました。爾来、375年余の星霜を重ね近年に至っては特に老朽化し、平成5年に議題になり平成7年檀信徒の浄財等により改築を決定した。西暦2000年の節目に完成する。(情報提供:真福寺)美作88カ所霊場会のホームページ

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