堂の前公園(横山)
2020年4月5日、津山市横山にある堂ノ前公園を訪ねてきました。この公園はメイン通りより少し山際に入った静かな住宅街の中にあります。公園の西側には少し濃いピンクの枝垂れ桜が植えてあり、丁度満開を迎えていて奇麗でした。遊具は滑り台とシーソーがありました。
2020年4月5日、津山市横山にある堂ノ前公園を訪ねてきました。この公園はメイン通りより少し山際に入った静かな住宅街の中にあります。公園の西側には少し濃いピンクの枝垂れ桜が植えてあり、丁度満開を迎えていて奇麗でした。遊具は滑り台とシーソーがありました。
津山市種にある洗顔清水周辺の景色はいつ見ても心が癒されます。後醍醐天皇が通られたという説に納得してしまいます。
この道は、毎年「さらやま時代まつり」のイベントが行われる所でもあり、歩くと道の両脇に季節が感じれます。山々の景色、また、野菜や庭先のお花など自然がいっぱいで大好きな所です。(2020年7月25日撮影)
イナバ化粧品店さんで「蒜山にハーブガーデンがあるよ!」とお聞きしたので、早速行ってみることにしました。目的は蒜山大根と蒜山ハーブガーデンですが、インターを降りてすぐの「道の駅 風の家」で売られている大人気の蒜山大根は、残念ながら昼前にはすでに売り切れでした。
道の駅 風の家から、ほどなく行くと蒜山ハーブガーデンに着きます。ここでは、涼しい風、雄大な蒜山の景色とハーブの香りに癒されました(2020年8月22日撮影)
大字宮部下に芭蕉塚が現存する、ここには二つの句碑があって、その一基には松尾芭蕉の句が刻んであり、他の一基には芭蕉の句碑を建てた人と推定される黒田畝中の辞世の句と思われる句が刻まれていて、土地の人は此の二つ並んだ句碑を総称して「芭蕉塚」と称して今日に及んでいる。
此の二つの句碑には建立の年月日も刻んでなければ句碑を建てた人の名前もなく、おまけによきほどにの句の作者も無く、句だけが刻まれているのである。このことについて塩尼青茄氏はその著『岡山の芭蕉句碑』の中で次の様にのべられている。
(芭蕉の)あまり有名でもない句を、それも作者の名も出さず、もちろん建立者の名も建立年月日も刻まずに建てた心を私は尊く思う。畝中は茶堂の新築に際して芭蕉句碑をそれも句だけ刻んで建てることによって浮世の見聞から離れて立つ自分をかえり見たかったのではなかろうか。それにしてもこうした建立者の名を刻まない芭蕉句碑を見るとき私は調査の困難さに困却するものの半面また昔の俳人たちの姿勢に思いをいたさずにはおられない。現代俳人の句碑のむなしさは、常に見聞がうすぎたなく漂うところにあるような気がする。畝中の辞世句碑も、これまた作者の名前も刻んでない。
津山市加茂町下津川で見かけた墨絵の様な景色に感動して写真に収めてきました。
この日は霧があってお目当ての所が分からず、下津川をウロウロと探検した様なかたちになりました。お陰様で今まで知らなかった景色に出会うことが出来、津山にもこんな景色があったんだと感動しました。美しい所でした。(2020年8月8日撮影)
神楽尾城の悲話
毎年、お盆に土居家では、門外の野辺で夕方から高万灯を掲げて火をともす行事が行われてきた。万灯ではなく長い竹又は木の棒の先に松明などを結わえ付けたものである。松明の中に籾殻や鋸くそなどを入れて火の粉が散るように工夫したものである。いつの時代に始まったかわからないが、この地方では大正の頃まで行われてきたそうである。無縁仏へ供えたのであるが、特に土居家では無縁仏はもちろんだが、霊になって出た千場三郎左衛門との約束を守るためにも行われてきたのである。(文:『美作の中世山城神楽尾』より)
阿波にある釜森公園は、加茂川傍にある公園ですが、遊具などはありません。
細い道を川沿いに行くとトイレが見えてきます。広場は奇麗に草刈りが行われていました。あたりには桜の木が沢山植えられていて、桜の花が咲く春にはとても奇麗なところです。(2020年8月1日撮影)
竹之下レインボー園地は、阿波の中央部を南北に流れている加茂川沿いにあります。公園の対岸には、アルカリ性単純泉の阿波温泉や、囲炉裏焼き あなみがあります。この公園には、今は回っていない水車があったり、推定樹齢500年を越える尾所の山桜の二世が植えられています。
阿波には、鬼の門で知られる大ヶ山、阿波伝説に由来するお夏の墓で知られる深山渓谷、川・阿波山滝(布滝・白髪滝・大滝)などがあります。
「コロナにまけるな!元気、笑顔 下野田町内会、子供会、中学生、老友会」
ひまわりの咲く田んぼは、津山市下野田に架かる野田橋のたもとにあります。1枚の田んぼですが綺麗に手入れがされていて元気の良いひまわりの花が咲いています。近くには勝北浄化センターや下野田ウオーターパークがあります。(2020年8月10日撮影)
利休屋敷
上加茂村物見のツエガ谷に在り廣さ260坪、口碑に傳ふ千利休此の地に生れ茶道に長ず。天正9年10月羽柴秀吉因州征伐の時中國より美作に入り高山城を攻め物見を越えて因幡に向ふ。利休この時出でて、供奉せしものなりと。里人古來利休の遺風を慕ひ正月元朝挽茶を用うるを例とす。又利休の異名を物草太郎と曰ひしは物見の一字を冒せしものとなりと。屋敷の一隅に利休の末裔八兵衛の墓あり、墓側に周圍二丈に餘る槻の巨樹あり。明和4年八兵衛が天満神社に記念奉納のため栽植せしものにして八兵衛槻と曰へり。樹は大正2年神社合祀の際伐採せり。(文『苫田郡誌』より抜粋)
千八兵衛の墓
上加茂村大字物見に在り、自然石にして高さ三尺輻一尺餘刻して圓壽奉冷信士と有り。口碑に傅ふ八兵衛は千利休の末裔にして安永7年5月25日此の地に歿せしものなりと。
(文『苫田郡誌』より抜粋)