神楽尾城の悲話・千場三郎左衛門の霊鬼

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 神楽尾城の悲話
 毎年、お盆に土居家では、門外の野辺で夕方から高万灯を掲げて火をともす行事が行われてきた。万灯ではなく長い竹又は木の棒の先に松明などを結わえ付けたものである。松明の中に籾殻や鋸くそなどを入れて火の粉が散るように工夫したものである。いつの時代に始まったかわからないが、この地方では大正の頃まで行われてきたそうである。無縁仏へ供えたのであるが、特に土居家では無縁仏はもちろんだが、霊になって出た千場三郎左衛門との約束を守るためにも行われてきたのである。(文:『美作の中世山城神楽尾』より)

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土居家の前の道路です。             土居家です。

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毎年8月13日に行うそうです。

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土居徹さんです。                息子さんと準備中です。

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親から子へと受け継ぐお盆の行事です。

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真っ直ぐに立てるのだけど電線があるので斜めにしました。

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 土居家に伝わる話によると、長曾我部勢と戦って、伊予と土佐の国境の笹峠で討ち死にした土居下野守方玄の三男土居四郎次郎康方(相馬守正守)は、長じて芸州の毛利を頼り備前国加茂白芦城にいた。その後、美作での緊迫に備えて、急ぎ土居四郎次郎は大蔵甚兵衛尚清の守る神楽尾城へ移った。
 神楽尾城では、城主大蔵甚兵衛尚清と副将千場三郎左衛門との間で意見の違いで対立、互いに譲らなかった。ついに、千場は大蔵を暗殺しようとしたが、発覚し、城を脱出した。
 大蔵は、大いに怒り、土居に千場を殺すように命じた。土居は千場を追って迫戸(現在の瀬戸)に至り、千場を切り伏せた。そのとき、千場は、この世の最後にと謡曲の「山姥」の一節を歌って首をはねられたと言うことである。
 土居四郎次郎は、主人の命令とは言え同僚を討ったのであるから、その亡骸を懇ろに埋め、塚を造って手厚く葬ったと言うことである。人々はその塚を「千場塚」とよんだ。

 その後、神楽尾城は、宇喜多の将花房助兵衛職秀の荒神山城との戦いに敗れ焼かれて廃城となった(天正7年〔1579〕3月)。四郎次郎の子は、伊予(愛媛県)で叔父方貞に育てられ、成人後、慶長5年(1600)父を慕って美作にきたものの父は亡くなっており、止む無く神楽尾城のよく見える下田邑の豪族鳥取与三兵衛方に寄寓した。名を土居坂之助方正のちに改め孫右衛門という。妻は、土地の鳥取与三兵衛の娘であった。ちなみに、田邑土居の初代四郎次郎康方(相馬守正守)の墓は西畑にあり、二代孫右衛門方正の墓は森の一角(鳥取氏の墓所)にある。墓は、三代から桐峪に代々祀ってある。(文:『美作の中世山城神楽尾』より)

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2016年の様子です。