芭蕉塚と黒田畝中(宮部下)

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 大字宮部下に芭蕉塚が現存する、ここには二つの句碑があって、その一基には松尾芭蕉の句が刻んであり、他の一基には芭蕉の句碑を建てた人と推定される黒田畝中の辞世の句と思われる句が刻まれていて、土地の人は此の二つ並んだ句碑を総称して「芭蕉塚」と称して今日に及んでいる。
此の二つの句碑には建立の年月日も刻んでなければ句碑を建てた人の名前もなく、おまけによきほどにの句の作者も無く、句だけが刻まれているのである。このことについて塩尼青茄氏はその著『岡山の芭蕉句碑』の中で次の様にのべられている。
 (芭蕉の)あまり有名でもない句を、それも作者の名も出さず、もちろん建立者の名も建立年月日も刻まずに建てた心を私は尊く思う。畝中は茶堂の新築に際して芭蕉句碑をそれも句だけ刻んで建てることによって浮世の見聞から離れて立つ自分をかえり見たかったのではなかろうか。それにしてもこうした建立者の名を刻まない芭蕉句碑を見るとき私は調査の困難さに困却するものの半面また昔の俳人たちの姿勢に思いをいたさずにはおられない。現代俳人の句碑のむなしさは、常に見聞がうすぎたなく漂うところにあるような気がする。畝中の辞世句碑も、これまた作者の名前も刻んでない。

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さて、芭蕉の句碑であるが、句は
 すゝしさは差図に見ゆる住居かな
芭蕉が此の句を詠んだのは元禄七(1694)年で、杉風宛の手紙には「野水隠居支度の折ふし」とあり「陸奥鵆」には「尾州野水新宅」とあるので、芭蕉が最後の旅にのぼり、元禄七年五月二十二日、名古屋に立ち寄って弟子荷兮の宅に三泊した。其の時矢張り芭蕉門下の野水が隠居屋を建築中であったので、「指図即ち設計図を見ただけで涼しい家の造りであることがわかります。誠に結構な隠居屋ですな。」と野水に挨拶をしたのが此の句である。
尤も此の句は「芭蕉選年考」によると、元作は
 涼しさは飛騨の内匠が差図かな
であったとする説もあるそうである。

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 芭蕉に句碑に並んで 
  よきほどに夢見てゆかん秋の暮
の句碑がある。此の二つの碑は同時に建てられたものかどうか。でも「よきほどに」の句碑は、黒田京平(畝中)の辞世の句碑であるが、黒田京平の裔黒田定夫氏(90才)の話によれば、この碑の石材は、此の川(句碑の前を流れている宮部川)を少し遡った左に王子と云う谷があり、此の谷に入るために橋がかかっている。この橋の上手の宮部川から運んだものだときいている。とのことである。碑のある土地も昔から此の黒田家の所有である。
 此の二つの句碑は建立の年代はちがうにしても、どちらの句碑にも作者の名もなく、建立した人の名もなく建立年月日もない点が全く共通していて別人の建てたものとは思えない。
 黒田畝中本名は黒田京平、津山の米園系であるので花本系の俳人で『綾熊集』にも「美作ミヤへ畝中」として句の出ている人でありながら、当時それ程に取り上げられなかったのは勝山を中心とし近隣一帯を風靡していた八千房系でなかった為であろうか。『大井東村々誌』には次の様に記れている。
 嘉永ノ末ヨリ安政ノ頃、宮部ノ人黒田京平先生、芭蕉亭ト称シ、宮部上下及ビ近村ノ子弟ヲ集メ、俳句 ヲ指導シ、傍ラ手習・読書ヲ教授セリ。
 教師 黒田京平
 教科書 往来モノ・俳句ノ本・五経・日本外史
 門子 廿余名、日々出席七、八名
とあるように三十歳台の畝中はこのように活動していた。又、土地の古老は「この芭蕉塚を守って住んでいた黒田京平と云う人は、文字に詳しく、辞書をつくると言って、生涯仕事もせず読書ばかりして終わった。」と語っている。此の人は大字宮部上の資産家黒田家から分家して独立した人であるが金銭方面にはあまりこだわらない人で、そうした面では段々と細っていったらしいが、学問とか俳諧とか、そうした文化面で大いに活躍した人である。

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 宮部川を中にして細長い谷合いの山村が昔の久米北条郡宮部村で、川添いに田舎道がうねうねと曲って通っていて、その上流に「仲仙道」という地名の部落がある。こゝから真北に山道を登れば「猿田彦」と云うと峠を越して今の鏡野町の「近衛殿」という古跡の下手に出られるし、近衛殿から小川に沿うて少し遡れば、県下最大(303センチメートル)の藤原後期の木造、十一面観音を安置する法華山弘秀寺に達することができる。
 うらゝかや公喞の行きし道すがら
と、文政から弘化にかけての俳人の古句も残っている。そればかりではない。芭蕉塚のあるたんぼの北の山地の主峯は「桧ヶ仙」と言う標高六百米近い山であって頂上に「北辰妙見宮」がまつられている。こゝには修験道の行者(山伏)の為の行場もあり、護摩堂もあって、行者達は勿論、一般の人達も霊験あらたかな神様としてふだんの日でも参詣の人は絶えることなく、芭蕉塚の前の道はこの妙見様へ参る一つの道すじになっていた。

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大津神社

又、仲仙道で右折しないで更に遡ると「仏ヶ乢」を越えて「余野上」に出る。今の真庭郡久世町であるが、ここには「大津神社」があって、此の神様も願いごとをよく叶えて下さる神様として近郷の人々の尊信が厚く秋のお祭りの日等は此の宮部の田舎道でも大津参りや妙見参りで道に人通りの列が出来たのものである。大正時代の前半、此の芭蕉塚のすぐ近くにあった小学校に通った筆者は当時の人通りのことをはっきりと覚えている。勿論みんな徒歩旅行である。文久年間のことだと古老に教えられたが畝中はこの芭蕉の句碑のあるかたはらの土地に小さな茶堂(無料休憩所)を建てて大津参りや妙見参りの人達にお茶を接待していた。芭蕉の句碑は恐らくはこの茶堂建築を記念して建立されたものであろう。

「天津神社奉納額」には「芭蕉塚畝中」とあることでもあり、その土地も畝中自身の所有地であり、それらのこと総合的に考えて、芭蕉の句碑は文久年間(1861~1864)に黒田畝中が茶堂建築を記念して建てたものと思う。又、「よきほどに」の畝中辞世の句碑も畝中以外の人が建てたものだとするならば作句者名を刻まないと失礼でもあるので、これも此の畝中自身が生前に建てたものと思う。
 多分此の茶堂であろうと思うが、明治も末年に近い頃ここに休み堂の様な小さな建物があって、ここに「おいち」と言う品のよい身だしなみのよいお婆さんがいて、うす皮饅頭をつくって売っていた。「おいち饅頭」と言って知れ渡っていた。私も四、五歳の幼童の日、祖父につれられてここを通り「おいち饅頭」を買って与えられた記憶がある。
 芭蕉塚の上手に北から流れてくる溝川がある。此の溝川は昔から宮部上村と宮部下村の境界であるので芭蕉塚は宮部下村の地内にあったのであるが一時この二つの句碑が無くなったことがある。道路改良の工事の際に、心無い工事人夫の人が面倒臭い邪魔物として側の溝川に捨ててしまっていたのである。それを俳人富田一章氏が発起して拾い上げ、今度は溝側の上手、宮部上村地内の田の畔に建ててあった。それから何年かたって此のあたりの道幅を広くすることになって又しても二基の句碑を取り除かねばならなくなった。そこで元々あった位置に戻したいと思って畝中の裔黒田定夫氏に話したところ、快く土地の無償提供に接し、道路拡張の工事費に含めて元々あった位置に戻したものである。(文:『久米町史(下巻)』より)(2020年6月7日・2020年8月18日撮影)