千場三郎左衛門の霊鬼

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 土居家四代七郎右衛門の頃に次々と不思議なことが起こった。人々は、これは千場三郎左衛門の祟りであろうと恐れおののいた。
 その一つとして村内にある家に13歳になる子供が長い間「おこり」を病んで寝ていた。
 ある日、子供が突然床の上に正座して「村の長(土居七郎右衛門※1)に言いたいことがある。急いで呼べ。」村の長が来ると「われは、千場三郎左衛門の霊魂だ。」と立派な武士の様子で語り始めた。
「かつて、神楽尾城に居った時、汝の祖土居四郎次郎とは刎頸(ふんけい※2)の交わりを結んでいた。

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 そもそも、武士が世に立って行くのは手柄を(兵馬の間に)立てなければならない。そのためには非常の手段を取ることもやむをえない、友達のよしみでそれを助けないまでも邪魔をすべきものではない。それにも関わらず、汝の祖土居四郎次郎は友情をやぶって我に刃をむけた。我は無念の刃に倒れた。今に至るまで魂がこの世にとどまっているのは、我が志を達せしめなかった為である。されば、その怨念を晴らそうと思って長い間、汝の家をうかがっていた。しかるに、汝の代になって、深く仏の教えを信じ慈悲を心として、かつ汝の父母共に我を手厚く祀ってくれる、その情けに向ける刃はない。今や怨念の心はすっかり消え危害を加えようとは思わない。ただ一つ頼みたい事がある。それは他でもない我が死んで千場家が滅び後の祀りをしてくれる者がいない。どうか墓石を建て、墓樹を植え我が死んだ跡が滅びないようにしてもらいた。」との言葉に心情が溢れ聞く人の心を動かされた。


 そこで土居の当主は[謹んで仰せの如くいたします。」と答えた。その場にいた若者が不可解に思って、その子供にその事を尋ねると返答が実に明白であった。さらに子供の父親が進み出て「私の子供は、今日まで病に伏していました。医者にかかっても、ご祈祷を受けても、一向に効き目がありません。これは貴殿のせいなのかどうなのかですが、子供は弱って今にも死にそうです。どうか、この子の命を救ってやってください。」と言うと霊魂は笑って「いや、これは自分の仕業ではない。今日、たまたま此処を通りかかって村の長を見たのを幸いに病身の霊魂に仮の宿として、日ごろ思っていることを述べたまでの事である。


 しかし、自分は良い薬をも持っているから、これを与えて病気を治してやろう。」とその言葉が終わらないうちに子供はばったり倒れた。一同、驚いて抱き起して見ると、顔色も言葉も全く元に戻っていた。ことの以外に、その様子をその子に尋ねてみると「よく眠っていると、一人の武士が来て大きい声で呼び起こし、腰に下げている薬篭の中から薬を出して舌の上に塗ってくれた。それは大変冷たく気持ちがよかった。」と答えた。そこで、舌の上を調べて見ると黒い点があった。さらに、武士容貌を聞くと「歳が三十歳位の黒色の服を着て、大小二本の刀を差していて大刀の柄を巻いた糸が切れてほぐれかけていた。」と、土居四郎次郎が千場三郎左衛門を急襲し、千場が刀を抜こうと振り向き様に土居の長刀が千場の刀の柄を切り落とした。まさにその時の千場の姿であった。すでに、子供の病は治癒していた。


 土居家をはじめ怪しい事件が度々村内に起こったが、霊魂の言う通り墓標を建て祭祀を懇ろにしてからは全く絶えたと伝えられている。
 上田邑に極楽山安養寺という寺があり、土居家の旦那寺である。この寺に養真という住職がいた。この住職が、戦国時代とはいえ、無残な死を遂げた千場三郎左衛門を気の毒に思い、死後190年ぐらいたっていたが、源了院の院号を贈り位牌を作って寺に祀ったとの事である。時に、明和2年(1765)7月と土居家の過去帳にのっている。
※1 大庄屋をしていた。屋号「森」
※2 刎頸(ふんけい)首を切られても後悔しないほどの親しい間柄の友
(会報28号 2002年)

(文:『美作の中世山城神楽尾』より)(2018年12月17日撮影)