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百乢の地蔵菩薩立像

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 百谷(ももたに)のはずれを左にとり急坂を登りきると百乢(百谷峠)に辿りつく。百乢は往来随一の難所といわれ、坂道の距離十七町余、百乢には一里塚があった。『作陽誌』によれば百谷や一里塚について次のように述べている。「百谷は井坂村にあり近世井村という(注:百谷村は井村と寺ヶ谷村に分かれている)。坂路は峻高で後から登る人は前を行く人の腿が見えるのでモモタニの名がついた。腿と百は訓が相通じるので今では百谷という。坂長十七町余、峠に里堠がある。養野村に通じ百谷越という。伯州通路なり」とある。一里塚のあったとされる場所に、朝倉兵衛門の寄進による石造地蔵菩薩立像(峠地蔵)が旅人の安全を祈願して建つ。年銘は読み取れないが、中養野の地蔵菩薩(六地蔵)に朝倉平右衛門の名がみえる。「施主 御茶屋□倉平右エ門」とある。□は欠損部分であるが、峠地蔵と合わせてみれば同一人物に間違いない。したがって、他の六地蔵の年銘が寛政四年であるので、峠地蔵もこのころの建立であろう。(文:『第6節 近世の交通』より)(2017年4月30日撮影)

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境の榎(えのき)

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 徳守神社の宮脇門から北を見ると至近距離、竹ノ馬場境に榎がある。これも大きく高い、昔から「境の榎」とされた一本である。南新座の方へ下りて、元の市立中央幼稚園のあった空き地の裏にも「境の榎」は残る。そこから少し東、妙願寺の南、長泉寺の裏にも一本があるが、上部が切断されている。
大木の落葉は墓地の大敵なのだから、止むを得ず「こうして境の榎は滅んだ」となるのであろう。また田町出雲大社の中には、囲いに保護された榎がある。これは田町中に数十本あった境の榎のやっと残った一本である。椋と榎いずれも城下町のシンボルには違いなかろう。(文:故 白石哲氏

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百済市良右衛門 -作州鋳物の伝統五百七十年ー

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 司馬遼太郎の「街道をゆく」の第7巻は、古代の鉄生産をたずねて山陰路を歩いた記事をのせている。その帰途に四十曲峠を越えて作州に入り、苫田郡加茂町の黒木あたりのタタラ跡を見て回った。そこから岡山へ出る道、五十三号線の佐良山地区内のドライブ・インに立ち寄った。同行の鄭詔文さんがいつものくせで電話帳を借りて来てめくっているうち、津山市内に「百済姓」が四軒もあるのを発見、すぐ電話連絡をしたら、百済康氏の家だった。寄って欲しいと言われ、吹屋町に引き返して系図をみせてもらった。「いかにも風趣あり」鋳物伝来の暗示をしているようで、みごとな感じをうけた。と司馬遼太郎は書いている。このみごとな感じとは、渡来者の家系を誇りとしていることを指すと思う。いうまでもないが、新しい文化を日本にもたらしたのは多くの渡来者であった。

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大阪城の号砲は津山藩の百済清次郎らが製造

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号砲
 この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
 1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
 明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12年~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。(文:大阪城現地説明板より)(2017年8月11日撮影)

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2017年8月 新しくなった津山駅北口

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 2017年4月1日、津山駅北口広場が新しくなり、公共交通の乗り換えも便利になりました。まだ、若干周辺の一部では工事がなされていますが、車での送迎も便利になりました。箕作阮甫像も、SLのC11-80号も移設が完了しました。まだ、これから53号線の道幅も広くなり、にぎわい交流館も出来るらしく工事が急ピッチで進んでいます。(2017年8月11日撮影)

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津山の商家が伝えた文人画 ~広瀬台山と飯塚竹斎~

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 「津山郷土博物館 平成26年度特別展 津山の商家が伝えた文人画 ~広瀬台山と飯塚竹斎~(苅田家コレクションより)」が平成26年10月4日(土)~平成26年11月3日(月)まで、津山郷土博物館3階展示室で開かれました。
 苅田家は江戸時代から続く商家で、その邸宅は宝暦年間に建てられたと言われています。このたび苅田家からその邸宅を津山市に寄付されることになり、それに合わせ苅田家で所蔵していた古文書や書画類の多くが寄贈されることになりました。この書画類の中には、津山を代表する文人画家広瀬台山や飯塚竹斎の作品も数多く含まれています。
 この展覧会では、苅田家の書画類の中から広瀬台山と飯塚竹斎の文人画にスポットを当て、津山の商家が守り伝えてきた絵画コレクションの一部を紹介します。(文:津山郷土博物館チラシより)(2016年10月4日撮影)

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妖精の森ガラス美術館と夏期企画展~幻硝世界~

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 妖精の森ガラス美術館は、平成18年に鏡野町が建設した世界で唯一の「ウランガラス」をテーマにした美術館です。ウランは19世紀から20世紀にかけて、欧米や日本でガラスの着色に使われていました。紫外線が当るときれいな緑色の蛍光を放つことから、当館では、地元、人形峠のウランを用いたガラスに「妖精の森ガラス」という名前を付けました。 小さな美術館ですが、展示室で19世紀ボヘミアやエミール・ガレの名品に出会い、工房でガラス作りを体験し、アートショップでお気に入りのガラスを探すなど、さまざまな楽しみ方ができます。ウランガラスの神秘的な輝きをお楽しみ下さい。
妖精の森ガラス美術館 館長/畠山 耕造 (2017年8月6日撮影)

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龍寿山 天台宗 国分寺

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2017年6月11日、龍寿山 天台宗 国分寺に立ち寄ってみました。
 鎮護国家を標榜された聖武天皇は国ごとに国分寺、国分尼寺を置かれましたが、美作国にも現在の東津山駅から1kmばかり南東の場所に作られました。全国の国分寺の中でも最大級のものだったようです。(詳しくは、前回の国分寺の取材をご覧ください。)(2009年の取材/美作国分寺跡)(美作国分寺想像図

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昭和38年~平成4年頃の元魚町商店街

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 銀天街や元魚町でまちづくりに関わってきた出口剛三さんからお話をお聞きすると、「なぜ早くから県北に商店街ができたのか不思議だったが、市(いち)としては明治初期の頃からあったようです。その当時は天然痘が流行っていて世の中が暗くなっている時に、少しでも町を明るくしようと、富クジを始めた。それが大当たりしたのが誓文払いのはしりとなった。平成4年頃の商店街には、それぞれの顔があり、元魚町商店街は、古本を集めてフリーマーケット(現在のフリマのはしり)をした。また、一番街はお化け屋敷、銀天街は生けすでうなぎを釣ってもらったり、カブトムシを展示したり、各商店街がそれぞれに抽選会をやった。当時のイベントで今でも残っているのは、幼稚園の子どもに協力してもらった一番街の七夕まつりです。」と教えてくださいました。(協同組合元魚町商店街の設立は、昭和38年7月22日です。)(平成29年7月現在の様子です。)(アルネが出来る前の銀天街の様子

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土人形展 (M&Y記念館)

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2017年6月9日に棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)へ出かけて来ました。全国郷土玩具土人形を収集(約2000点)しておられる杉本耕司さんの集められた人形の一部です。現在杉本さんは、津山郷土玩具愛好会を主催されています。次第に作られなくなった(失われていく)物を土俗文化と位置づけて研究されています。城東むかし町家(旧梶村邸)でも展示されています。(年に数回の入れ替え)


曽我五郎・舞鶴
先年市川海老蔵・坂東玉三郎に依り京都・南座にて公演されました。
江戸末期より長野のリンゴ農家の副業として代々製作せれて来ました。
立ヶ花土人形

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