津山洋学資料館で見ることが出来るオランダ正月
日本の「和食」が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録されるなど日本の食文化が国際的なブームになっているのをマスメディアで多々見かける今日この頃ですが、なんと出島のオランダ正月料理のポスターを津山洋学資料館で見つけました。津山に縁の深いオランダの正月料理はこんな料理だったのだと思い、津山のみなさんにも知ってもらおうと、長崎市にお問い合わせをし、ポスターならOKとのことで許可を頂きましたのでご紹介しますね。(2015年1月9日許可済)
日本の「和食」が2013年にユネスコの無形文化遺産に登録されるなど日本の食文化が国際的なブームになっているのをマスメディアで多々見かける今日この頃ですが、なんと出島のオランダ正月料理のポスターを津山洋学資料館で見つけました。津山に縁の深いオランダの正月料理はこんな料理だったのだと思い、津山のみなさんにも知ってもらおうと、長崎市にお問い合わせをし、ポスターならOKとのことで許可を頂きましたのでご紹介しますね。(2015年1月9日許可済)
2015年11月1日(日)城東伝統的建造物群保存地区に於いて第26回出雲街道津山城東むかし町祭りがありました。この日は朝から曇り模様でしたが城東地区の歩行者天国は大勢の人で賑わっていましたよ。また、街道や芝居小屋ではいろんなイベントが催され、侍や町人に扮した人たちが道行人々を楽しませていました。それに各町内会の屋台が出て賑やかでグルメな一日となりました。
津山藩の絵師 鍬形家と洋学者
森島中良、宇田川玄真、箕作阮甫、箕作秋坪、宇田川興斎
~鍬形蕙斎、赤子をめぐる洋学者たちの諸相~
会期:10月17日(土)~平成28年2月7日(日)
◆「江戸一目図」で名高い鍬形蕙斎(1764~1824)は、はじめ北尾政美の名で浮世絵師として人気を博し、1794(寛政6)年に31歳で津山藩の絵師として召し抱えられました。惠斎の画業への評価とともに特筆すべきなのが、文人や学者たちとの交流で、宇田川玄真や森島中良ら、洋学者たちとも交流した記録があります。
さらに蕙斎の跡を継いだ赤子(1800~1855)は、1854(嘉永7)年のペリー再来に際し、藩命で洋学者の箕作秋坪、宇田川興斎とともに浦賀に偵察に赴きました。各地に伝来する黒船を描いた絵巻には、赤子が描いたものや、それらを写したものがあり、黒船をめぐる学者たちのネットワークが垣間見えてくるのです。
本展では、津山藩の絵師を務めた鍬形家3代のうち、初代蕙斎と2代赤子について、洋学者たちとの交流という側面からご紹介します。(文:津山洋学資料館HPより)
2015年10月18日(日)快晴の秋晴れの中、大隅神社の秋祭りが執り行われました。この大隅様が津山まつりの最初のまつりとなります。神輿も重要伝統的建造物群保存地区を通られるた時は、往古の昔を偲ばせてくれるようなロマン溢れる風景でした。また、今年はだんじり全11臺が出動して賑やかで華やかなお祭りとなりました。イーストランドに勢ぞろいしただんじりの中を進む大隅神社のお神輿に皆さんが大きな声で声援を送っていました。
2015年は、京都で山脇東洋が日本最初の人体解剖を行ってから260周年にあたります。この解剖の記録として『蔵志』が出版され、それまで信じられてきた「五臓六腑」図が否定されました。当時の医師たちは人体の内部を自分の目で確かめるため、各 地で解剖を行いました。『解体新書』翻訳のきっかけとなった、江戸小塚原の腑分けもその一環です。蘭学の発展に大きな役割を果たした解剖図、そして現代の 解剖図-メディカルイラストレーション-を一堂に展示することにより、江戸時代から現代へ繋がる医学の発展をご紹介します。(文:津山洋学資料館HPより抜粋)2015年9月5日取材
2015年9月5日(土)~10月4日(日)津山洋学資料館 9:00~17:00(入館は16:30まで)
明治天皇の崩御に立ち会った医師・岡玄卿が、津山ゆかりの人物だということをご存知でしょうか。
岡玄卿は、墓誌によると1852(嘉永5)年に津山藩の大坂蔵屋敷で生れたとされます。大学東校で医学を専攻し、1876(明治9)年に東京医学校(翌年東京大学医学部に改称)を第一期生として首席で卒業。同大の助教を経て、助教授となりました。
1883(明治16)年に宮内省から侍医を拝命し、ドイツ留学後に侍医局長を経て侍医頭となり、1912(明治45)年の天皇崩御に立ち会ったのでした。
久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年
茂良は洪哉の次男として津山で生まれました。最初「木藾」と称しますが、 1884(明治17)年に茂良と改めました。同年、東京大学医学部を卒業し、順天堂病院等で臨床研究を重ねました。1886(明治19)年に帰郷すると、 津山二階町(現・津山市二階町)で医院を開業します。
津山藩医・久原家
久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。
箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。
1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。
翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。
「実感!体感!舎密開宗」(せいみかいそう)-現代化学者が語る宇田川榕菴のすごいところ-
平成27年2月22日(日)午後1時30分~3時から津山洋学資料館GENPOホールで講師に津山工業高等専門学校 准教授 廣木一亮 先生(導電性高分子の研究で工学博士を取得。元・未来館の科学コミュニケーター兼理化学研究所客員研究員。)をお迎えし、化学者の視点から、宇田川榕菴と『舎密開宗』の"すごさ"を、当時の時代背景を交えながらお話しくださいました。
廣木先生が小学生の頃、「たのしい化学」の中に『舎密開宗』が載っていたのだそうです。家に化学実験室をもつほどの化学好き。ノーベル賞を受賞された白川英樹先生の最後の弟子で、白川先生と今でもメールでやりとりしているそうです。