久米歴史民俗資料館・民具館
糘山遺跡群の発掘調査にともなう出土品を中心に、久米廃寺・宮尾遺跡などからの出土遺物を写真パネル・レプリカ・模型などにより概ね時代順にコーナーを設けて展示しています。また、民具館では明治から昭和中期にかけて、久米地域で使用された生活民具・農具等を約300点展示しています。津山市中北下1271番地 (津山市久米公民館南隣)2014.9.17
糘山遺跡群の発掘調査にともなう出土品を中心に、久米廃寺・宮尾遺跡などからの出土遺物を写真パネル・レプリカ・模型などにより概ね時代順にコーナーを設けて展示しています。また、民具館では明治から昭和中期にかけて、久米地域で使用された生活民具・農具等を約300点展示しています。津山市中北下1271番地 (津山市久米公民館南隣)2014.9.17
美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)
明治45年に勝田郡役所として建築した擬洋風建物、元勝央町役場庁舎。勝央美術文学館は、明治から昭和にかけて我国の芸術文化の一翼をになった本町出身の画家・文学者らの仕事を顕彰するための施設として設立したものです。所蔵コレクションは、昭和58年に役場旧庁舎を改装、開館した旧郷土美術館のものがベースとなっています。
所蔵作品・資料中心の常設展示をはじめ各種企画展や、特別展等を実施。また、ギャラリー等では地域を拠点に活躍する芸術家の作品発表の場として、また各種普及講座を実施し地域に開かれた芸術創造空間をめざしているそうです。(文:2007.7.17取材時のもの)
東作誌太田村の古跡に大塚(由来不知)とある。出土品などから古墳ではないかと言われている。現在は大師堂がある。(弘法大師、空海、真言宗)近くに小塚があるが、墓地となっている。(2014年6月23日取材)
史跡 美和山古墳群(2014年4月6日)
津山市民は、美和山古墳群を、美作地方の代表的な古墳群として守ってきましたが、宅地造成で、この附近一帯が壊されることがわかり、市が土地を買い取って、1977年、国の史跡として指定を受けました。
さらに市は1984年から8年間かけて史跡公園として整備し、市民が文化遺産に親しむと共に、いこいの場となるように工夫しています。
中宮一号墳は約50年前に発掘調査され、前方後円墳の一種で、ほたて貝式と呼ばれる、ほたて貝の形をした珍しいものです。発掘品は、土器・馬具・鉄器・玉類など多岐にわたり、津山郷土博物館に展示されています。この付近には他にもほたて貝式前方後円墳や、円墳があります。(情報提供:さら山ビジョン研究会)2013.10.30取材
2013年11月10日に、第16回 さら山時代祭が小雨の中執り行われました。
イベント盛りだくさん。餅つきから、健康チエックまで!各町内会がだす屋台も多く、品数豊富。さらにシールラリーも!当日は小雨が降って肌寒い日になりましたが、後醍醐天皇が通った道をゆっくり歩く時代行列はおなじみになっています。
昭和61年に、県道押淵・皿線の改修工事に伴い発掘調査された古墳で、古墳時代のものです。6世紀終わりから7世紀にかけて、5回の追葬が行われ、土器・鉄刀・耳環・紡錘車・陶棺などが発掘されました。(情報提供:さら山ビジョン研究会)2013.10.30取材
この古墳は剣戸13・14号墳が正式な名称ですが、330年程前キリシタンと共に幕府から弾圧された日蓮宗不受不施派の信徒である佐伯の本久寺の住職日勢 聖人がこの古墳を最期の地と定め閉じこもりました。この話が伝わり、建部の4人の女性が共にこの古墳で最期を迎えたことからこの名で呼ばれています。(2013.10.30取材)(資料提供:さら山ビジョン研究会)
2013年2月3日(日)取材
福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」