大谷碧雲居 文学碑(文化センター東)
秋風や城といふ名に石枯るる(津山文化センター東 薬研濠東)
明治18年、岡山県苫田郡生、昭和27年没。昭和20年、東京から疎開し津山市田町に住む。師の渡辺水巴没後、俳誌「曲水」の二代目主宰者となる。句風は穏やかで曇りなく、絵画的な美しさを持つ。(文:津山文学碑めぐり案内)(2015年10月25日撮影)
秋風や城といふ名に石枯るる(津山文化センター東 薬研濠東)
明治18年、岡山県苫田郡生、昭和27年没。昭和20年、東京から疎開し津山市田町に住む。師の渡辺水巴没後、俳誌「曲水」の二代目主宰者となる。句風は穏やかで曇りなく、絵画的な美しさを持つ。(文:津山文学碑めぐり案内)(2015年10月25日撮影)
2017年10月28日・29日午前10時~午後4時まで津山市沼の柳どおり周辺に於いて「柳ストリートマーケット」が執り行われました。初日の28日はあいにくの雨模様になり残念でしたが、各お店の工夫を凝らした品物が店頭に並んでいました。かぼちゃの重さ当てクイズに挑戦したり、ワークショップでは楽しそうに作品を作っておられました。また、沖縄県人会のみなさんも、テントの中でエイサーを踊っていらっしゃいました。おにぎり美味しかったですよ。
道家大門(ひろかど)は天保元年(1881、旧暦天保元年11月18日が西暦1831年1月1日にあたる)12月10日津山藩士遠藤浦右衛門正利の四男として生まれた。幼名弥作、のち助十郎、順と名乗った。伯父にあたる同藩津田七太夫文行は藩の料理番を務めていたが、津田家の長男真一郎は学問修行のため廃嫡、次男鉄次郎は早逝したため、従兄弟の大門が養子となって津田家を継いだ。一時期津田弥作儲美と称していたが、津田の本姓が道家であることを知り、文久元年(1861)に道家と改姓した。その後料理番より進み、慶應4年(1868)に御刀番、明治維新後に作事奉行となる。同年藩より国学修行を仰せ付けられ、平田鎮胤(平田篤胤養嗣子)に入門した。
津山市下紺屋町にある真言宗醍醐派 瑠山 醫王寺(いおうじ)が、前から気になっていましたので、ご近所の方にお聞きしました。「昔は商店街の皆さんで寄付を募り、祇園様などのお祭りも賑やかでした。今は商店街も段々と廃れてきてしまいお祭りもしていませんが、また、年に一度くらいは堂内で会議も出来たらいいと思います。そうしたら、また皆でお掃除でもできるのですが・・・。それに、松平家も平沼家も寄付者になっておられるので何か由緒もあるのでは。」と語っておられました。また、泉水寺の住職にお聞きすると、「先代から引き継をしていなかったので詳しい事は解らないが祇園信仰(牛頭天王・スサノオに対する神仏習合の信仰である。明治の神仏分離以降は、スサノオを祭神とする神道の信仰となっている。京都の八坂神社もしくは兵庫県の広峯神社を総本社とする。)の流れで建立されたのではないか。」とのことでした。(2017年8月23・25日撮影)
宇田川興斎旧宅跡 未指定(史跡) 北町8番地の7
津山市北町の城北橋の西詰の一角に津山市教育委員会が建てた解説板がある。ここが箕作家と並ぶ津山洋学のもうひとつの柱、洋学者宇田川家の四代目宇田川興斎の屋敷であったところである。この場所は、土地所有者本島大道より津山市が寄贈を受け、平成9年10月に整備された。興斎は文久3年(1863)から明治5年(1872)までのあしかけ11年間津山に住んでいた。この北町の屋敷の後、林田町に家を借りて住んでいるが、その場所は不明である。当時は明治維新前後の激動の時代であり、津山にいる間、興斎は東奔西走し、公私ともに多忙な日々を過ごした。
2017年4月12日津山市沼にある「弥生式住居跡」の周辺のツツジの花が見ごろを迎えていました。
津山盆地が見渡せる丘の上にある弥生時代の集落跡。竪穴式住居・高床式倉庫・作業場があったとされ、現在ではそのうち、竪穴式住居1棟と高床式倉庫1棟が復元されています。隣接の津山弥生の里文化財センター(入場無料)で発掘成果などを見学できます。(詳しくは過去の取材記録をどうぞ)
「武徳殿跡」日露戦役の後、武徳の称揚民間に及び、武徳会津山支所のもとに各所に剣道場が設立されたが、西北部に新進の勢力を助長させるため、大正11年中山神社武徳殿の建設をみ、津山警察署の指導を得て一大進展をみるに至った。かくて勇士雲のようにでて小学校もまたこれに習い、地方の青年有志間においても諸武徳大会に、さらには昭和2年3月大日本武徳会岡山県大会(青年団体の部)優勝という輝かしい成果をおさめた。
昭和18年高田・田邑両村と連合して4ヶ村組合立青年学校を、昭和23年4月組合立津山高等学校中山分校、昭和29年7月に津山市に編入されるにおよび津山東高等学校となり、その後津山市沼の本校に併合され、今は中山神社の駐車場となっている。 (美作一宮の遺産を見つける会発行:美作一宮 郷土の遺産より抜粋)
材木町は津山城築城の折、材木置き場になったことに由来する。
森家の重臣森采女の別邸が置かれたが、松平藩に代わり重臣の小須賀氏の別邸となった。一説にこの屋敷の屋敷神が小須賀稲荷神社として伝わり、現在は材木町と伏見町の町内神になったと伝えられている。武士が屋敷神として稲荷の洞を設けるようになったのは、江戸中期、足軽の子から、幕府の老中まで出世した田沼意次(おきつぐ)が、稲荷を厚く信仰していた為という説がある。
所在:津山市材木町 祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのみこと) 創建:慶長年間(1596~1615) 以降
祭礼:秋祭10/末~11/初
(文:津山城下町まちなかお社巡り 津山まちづくり本舗)(2016年11月30日撮影)
師走になり、市内のイルミネーションも綺麗に飾られ、毎年私たちを楽しませてくださっている事に敬意を払いながらイルミネーションめぐりしてきました。(2016年12月12日撮影)
2016年12月7日の沼の住居跡地に行って来ました。何度も訪れていますが、何度行って飽きない場所です。
2009年の説明によると(竪穴住居の中央部にはイロリがあり、そのイロリを囲んで家族生活が営まれていたようです。竪穴住居址を調査すると、時には紡錘車という糸紡ぎの道具や鉄の加工具、あるいは石の道具を作る際に出る石くずなども発見されるので、竪穴住居の中では布を織ったり、木や石の道具を作ったりもしていたようです。)(2009年の取材)