八幡神社(津山市新野山形字宮山)
天平十年(738)美作守大伴兄磨のとき、豊前国(大分県)字佐八幡宮の分霊を勧請し、上宮八幡宮と唱えたという。祭神は品陀和気命(応神天皇)・大雀命(仁徳天皇)・天御中主命の三神をまつり、相殿に足仲彦命(仲哀天皇)・息長帯比売命(神功皇后)をまつる。(美作神社資料)
天平十年(738)美作守大伴兄磨のとき、豊前国(大分県)字佐八幡宮の分霊を勧請し、上宮八幡宮と唱えたという。祭神は品陀和気命(応神天皇)・大雀命(仁徳天皇)・天御中主命の三神をまつり、相殿に足仲彦命(仲哀天皇)・息長帯比売命(神功皇后)をまつる。(美作神社資料)
美作国theミステリーの謎解きでやってきた。ヒントは「遷喬小学校の校舎と向かい合え、真正面から、川のうねりを感じられるだろう。ただし、ほはあげるな。」です。
頂いた資料によると、旧遷喬尋常小学校は、「明治40年(1907)に巨額な費用を投じて建てられた木造校舎が、平成2年(1990)の夏、84歳にして小学校の役目を終えた...。今も、どっしりとした威容を誇る我が母校。あの木造校舎が、私たちの心をとらえ続けるのはなぜだろうと考えてしまう。旧久世町の教育を語る時、ルネッサンス風木造校舎ぬきでは考えられない。明治の先人たちが残した学校(子弟)教育への情熱を後世に伝えたい。人生の出発点を育んだ小学校時代を、ここを訪ねる人に思い出してもらい、明日への活力としていただくことを願う...」(2013.9.28取材)
宇田川玄真(榛斎)は明和6年(1769)伊勢国(現・三重県)の安岡家に生れる。若いころから、精力的に漢方医学を研究し、江戸に修行に出ます。江戸で玄随に出会い、西洋医学の正確さを諭されたことから、洋学の道に進むことを決意したといわれています。また、玄真は一時期、杉田玄白の婿養子となっていたことでも知られています。
津山市新魚町のアルネ・津山4階市立文化展示ホールで19日(木)~30日(月)までありました。I期(19日~23日)は日本画、洋画、工芸、写真、デザインの5部門(県、山陽新聞社、おかやま県民文化祭実行委主催)2013年9月29日(土)取材
地蔵院をお尋ねして谷崎潤一郎さんが、一時疎開していたという「宕々庵」(とうとうあん)のことをお聞きしてみましたが、もはや、写真も資料もないとのことで残念でした。今は、影も形もありませんが、地蔵院内にある愛山廟の前にダンジリ庫が建っているところにあったそうです。写真からうっすらわかるでしょうか?この写真は得能さんからお借りしたものです。記録では、庭には梅とつつじ、キリシマが植えられていたそうです。
誰か写真をお持ちではないですか?(2012.6.20)取材、前回の取材はこちら
宇田川玄随(うだがわげんずい)
宇田川玄随は元々漢方医で、蘭学に対して「西夷之子鴃其舌而左其衽何足以掛歯牙(西洋人はモズのように口を尖らせ、左前の服着た野蛮人で、歯牙にも掛けることはない)」という態度をとっていました。しかし、解体新書翻訳メンバーの一人であった桂川甫周や大槻玄沢から話を聞き、西洋医学に目覚めると、玄白などにも教えを受け、蘭学者となっていったのです。
★1792年(寛政4)年10月19日、玄随が主導し、津山在住の藩医をはじめ、町医者2名が参加して、津山ではじめての解臓(解剖)を行った。
二人連れでやってきました、JR姫新線の美作土居駅です。(2013年9月22日)
この駅は昭和11年開業で、兵庫県との県境にある木造駅舎です。ウィキペディアによると1日の平均乗車人員は39人(2010年度)だそうです。
来たのはいいのですが、二人とも肝心の本を忘れて来てしまいました。たしかたしか、「駅の前の坂を上がれ、そのままを見ろ、宿は必要ない!」だったと薄い記憶をたどりながら、正面を見て駅名のプレートを見るがさっぱり解らない。
津山洋学資料館は平成22年3月に新館がオープンし、その前庭に宇田川玄随・宇田川玄真・宇田川 榕菴・箕作阮甫・箕作秋平・津田真道の5人の胸像が置かれています。いつも拝見するのですが、はて?この方たちの年代と何時、何処で、何をしたかがごちゃまぜとなってしまっているので、各人のプレートから少しまとめてみました。
津山洋学資料館(つやまようがくしりょうかん)は、岡山県津山市の城東町並み保存地区にある博物館です。建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されたとされています。
東谷の釣井から西谷に越す坂道の上にお不動さまがある。
お堂は平成元年に改築されたもので、堂内の中央に厨子に納めた不動明王、両側に観音菩薩・薬師如来・弘法大師など、多くの仏像が安置されている。
お堂の東側(字本願寺)には、この場所が津山城の鬼門に当たることから、元禄元年に城主森家の祈願所として建立された山伏寺の極楽山本願寺があった。この極楽山本願寺が廃寺となった後、その木材を用いてお寺の西側(字堂西)に不動堂を建て、本尊の不動明王を安置したと伝えられている。
東谷の香山太郎宅の前の坂道を東に越すと、近平井手のほとりに御影石の石碑が建っていて、正面中央に「奉日書寫般若心経一千巻供養塔」右に「天明七丁未歳十月十五日始」
左に「寛政二庚戌暦六月十七日迄」と刻まれている。裏面には「一天太平四海静謐風雨順時五穀豊登萬民快樂殊者信心之願主」と願意を記し、「上高倉村住人香山清志謹言」とある。また両側面には、四国八十八箇所霊場を回り、当国三十三所に書写した普門品(観音経)を納めたことが記されている。