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北川フラム講演会(えとあーと12年、地域文化の現在)

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つやま芸術祭・えとあーと 北川フラム講演会が2013年3月3日(日)13:00~津山市立図書館視聴覚室で行われました。

今年で12年目を迎え、干支が一回りする「えとあーと」。この事業の企画立案者・審査員であり、「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ」やもうすぐ開催される「瀬戸内国際芸術祭」をはじめ、里山・都市・海と島など、様々な背景をもつ地域でアート事業を手がける北川フラム氏が、全国の事例から地域文化の現在について語られました。(2013.3.3)

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福井 源平の古戦場を語る新宮城址

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 福井の南部、土居の公会堂付近に、真宮神社の鳥居や花壇があり、その地点より山手へしばらく上がると、海抜204mの平坦な山頂部に達する。ここに福井と新田にまたがって古い城跡があり、新宮城跡と言われている。展望のきく南側は、広戸川に面して急峻な岩肌が切り立っており、城としては天然の要塞を思わせるものがある。
 山頂の平坦地は、南北およそ40間(約70m)・東西180間(約200m)の広さがあり、中間に長さ40間余の土塁らしきものが残されている。かっては、土塁の西側に建物の本拠があり、広い東側は、城郭内の広場や城兵糧食の耕地であったと言われている。この新宮城跡については、源平のころからの古い歴史をもつだけに詳細不明で、城主についても異説があり、名称すら新宮か真宮か判然としない面があり「東作誌」等でも謎に包まれた記述がされている。
 しかし一般にはあまり知られていないが、明治末年に書かれた新宮城の詳しい伝記本が存在している。安藤十朗氏著「霊夢 神宮山木下伝記」(和綴じ全5巻付録1巻 福井 安藤六衛氏蔵)がそれである。
 平安後期に平氏一門の木下氏が拠点として築城した様子から、源平合戦で滅亡するまでの経過を、年代をふまえて克明に記録した伝記である。2012.6~12月取材

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安藤幸夫さん(刀銘 広清)県重要無形文化財

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 安藤幸夫(刀銘広清)さんは、昭和22年2月4日津山市福井生まれ、東京でコック(札幌オリンピックにも関わる)をしながら、昭和40年鎌倉市の研師西村勝政に入門し砥の勉強をしていたそうです。子どもの頃から刀が好きだったので砥をやったが、終始一貫して出来るということで、昭和47年に刀匠(刀匠 小林康宏氏に師事。8年間の修業を経て文化庁から刀匠の認可を受けた。56年郷里の津山に帰り、本格的に作刀を始めたのだそうです。同57年には新作名刀展に初入選する。以後、連続して入選する。

<以下の文章は津山市広報から抜粋>
 日本刀は月に2本しか作ることが許されていませんが、その少ない機会の中で、様々な鉄を使って、研究を重ねています。特に江戸時代以前の鉄砲や釘などの古鉄を探し、鋼に仕立て直し材料にしています。大変手間が掛かり、ほかの刀匠は嫌がりますが、この手間こそが現代に名刀を蘇らせるのだと思っています。
技術というものは、いったん失われてしまうと、蘇らせるのに百年は掛かるものです。ほんの一瞬のことで次の世代に伝統が伝わらなくなってしまう。そんな失われた幻の古刀を自分の手で再現したい。

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谷崎潤一郎と勝山の町

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都わすれの記(2012.5.10取材)
勝山町は旭川の上流なる山峡にありて小京都の名ありといふ、まことは京に比すべくもあらねど山近くして保津川に似たる急流の激するけしきの嵐峡あたりの面影なきにしもあらざればしか云ふにや、街にも清き小川ひとすぢ流れたり、われらは休業中の料理屋の離れ座敷一棟を借りて住む、二階の六畳二間を書斎にあてゝ故帝鴻銘翁が短冊に書したる有 人對 月數 歸期 の七字を柱に懸けたるは、此の句恰も今のわが身にふさはしければなり、あゝわれ齢六十路におよびてかゝる邊陬に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし
 なつかしき都の春の夢さめて
  空につれなき有明の月
 まどの戸をあくれば入り来やまざとの
  人に馴れたる雀うぐひす

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津山に谷崎潤一郎、東山魁夷が来ていた。

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(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真

 津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。

☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!

 得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。

 また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。

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道祖谷山 宝蔵寺(津山市加茂町)

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宝蔵寺
 当寺は斉野谷にあって、道祖谷山宝蔵寺と号し、天台宗比叡山延暦寺の末寺であり、本尊は大日如来である。貞観二年(860)慈覚大師円仁の開基と伝えられる。文化十二年(1815)頃には、無住寺で本堂四間四面南向、庫裏四間半八間、鐘堂、長屋、鎮守山王権現小などを残すのみであったが、「東西百間余、南北二百間余」の広い境内や、東林房、安養房、惣門などの旧跡が残存し、かつての大寺の面影を残していた(『東作誌』)。
二尺七寸の本尊大日如来坐像、脇立の不動明王と毘沙門天はいずれも作者不明であるが、文化十二年(1815)に『東作誌』に記録されているものであろう。(加茂町史より)2012.12.13取材

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺(旧勝北町)

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金峯山修験本宗 長命山 多寶寺
 往昔の吉備中山は和歌題詠の名勝であった。その中山の麓山形の地に、長命山 多宝院とと唱へる修験道場があり、慶長年中津山の城主森美作守忠政が、津山城艮の鬼門除祈願所として、陣具を奉納せられたとの傳があり、現在津山市大谷の石山摩利支天も此時に祀られたとのことである。昭和年中より文化年代に渉っての住職、七代目大僧都宗春、八代目権大僧都宗栄の二代は、相続いて苦行を修し、厄難除けと併せて、女人安産に霊験顕著であった。その為め世人の崇敬を受け、隆盛の道場であったが、慶応年中には無住となり、堂宇破損ついには風の為め倒壊するに至ったのである。當時堂内にあった佛像はこれを字水原に移し、小堂を建てて保存したのであったが、寺跡は明治以降山林と化し、其後周辺は開墾されて畑となり、僅かに寺号のみが傳へられたのであった。近年に至って宗教法人法附則第五項の規定によって、県知事の認証を得、昭和二十七年十一月十三日登記手続きを完了、寺号を長命山 多宝寺と号し、旧時の遺跡である、山形東俗称宇根の地に堂宇を建立、金峰山修験本宗に所属し、住職は管長の任命によって、大阿闇梨僧都孝範が就任し、再來天下泰平万民豊楽の祈祷を執行、毎朝鳴り渡る法螺貝の音は、那岐連峰にこだまして、勝北平野の静空を流れ、八万四千の煩悩の夢を覚して居るのである。(文:新野村史より)2012.10.27取材

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法然上人が修行した 高貴山 菩提寺

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菩提寺略縁起
 当山は、お念仏「南無阿弥陀仏」の元祖で、浄土宗を開宗されました「圓光大師法然上人」が、初めて仏教を学ばれた聖域にして、浄土宗史蹟であります。
 その草創は、持統天皇(41代)朱鳥6年(692)役の小角神変大菩薩が名木の神山(那岐山)に霊地を求め、この地に修験道場を開き、後に天平年中、聖武天皇(45代)の勅願によって行基菩薩が自ら十一面観音像を刻んで中堂に安置し、「元明天皇(43代)の菩提寺」として再興開基し、七堂伽藍三十六僧坊を建てめぐらし、四宗兼学の学問道場として各地から学僧が蝟集し、その興隆数百年に及んだ。
 その間"法相""天台""浄土""真言"と各宗変遷をたどり多くの名僧を輩出したが、殊に法然上人(幼名勢至丸)9才(1141)から13才まで、父漆間時国公の遺言によって、母方の叔父、勧学得業上人のもとで学問を始められた史実は、勅修「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)に伝えられる処です。
 往古の伽藍の様相を、僅かに残る中古の記録によると、'本堂九間四面""観音堂五間四面""鎮守堂四間四面""不動堂二間六面""鐘堂二間四面""通堂九間"等々記されており、広大な規模を彷佛とさせられるものがあります。
 数百年の繁栄も、この地が険要であったが為、地方豪族の拠点として菩提寺城等の城砦を築き、戦国乱世に頻りに災禍を受けてついに天文2年、尼子義久の焼打によって、悉く灰燼となって以来衰微の一途を辿り、江戸末期僅かに残る草庵も焼失し、無檀、無禄につき復興のめどなしとして、一旦は廃寺となったが、法然上人遺蹟地の故、明治十年寺名再興浄土宗復宗の官許を得て作因両州近郷近在の檀越、信徒共々信心を凝して本堂再興(明治十三年)、以来現在に及んでいる。
1、本尊:十一面観世音菩薩 座像、嵯峨大覚寺から文久元年招来。
2、阿弥陀如来:芝増上寺から蔓延元年招来
3、勢至丸像:勢至丸様(法然上人幼名)の霊像で、阿弥陀如来と共に奉納された唯御一体の圓光大師少年姿、冷泉為恭の作。
4、守護神:摩利支天王を勤請し、境内の守護神として巌上に御鎮座
5、観覚塚:勢至丸様初学の師、観覚得業上人の御墓、熊谷蓮生(直実)の建立と言われる、石塔は近年の建替え。
6、大公孫樹:勢至丸様9才入山の際携えた、いちょうの杖を「我、未来に弘めんとする法門盛んならば、必ず繁生せん」と本尊に誓って挿し木したと伝えられている。
果たして念仏の興隆と共に繁茂し、目通り13m余高さ40m余の巨樹となり、昭和3年国の天然記念物に指定された。
資料提供:高貴山 菩提寺(2012年11月14日取材)

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岡山県重要無形民俗文化財 梶並神社「当人祭」

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神社の祭祀
 古代の祭祀については、知る由もないが、石奇清水八幡宮の勧請以来は、自他共に許した社格をもって、それまでの伝統をも活した祭事が行われた事は当然の事で、神社誌の考証等によれば、「放生会」や「御輿の渡御」「もこしまつり」等の行事が行われたと述べている。
ところで、「由緒」と沿革の中にも示している通り、戦国時代の終わり頃、社領が没収される等の事によって、祭典のしきたりも改めて行うというような結果となり、ここに頭(當)人祭と称せられる祭の様式がとり入れられたと理解すべきだろう。
 頭(當)人祭に就ては、当社に残る最古の記録として「八幡神社五度の祭年々頭人留置 享保十八年癸丑正月吉日」「社頭第一重職 横山 右衛門佐」と記された簿冊により、構成や様式、経過等について織る事が出来る。(梶並神社誌より)


岡山県重要無形民俗文化財
創建千四百年の歴史を物語る奇祭
梶並神社当人祭
平成24年10月6日(土)美作市梶並123梶並神社境内
当人様(生き神様)が参道にひれ伏した参拝者の背中をまたいでゆく、またがれた者はその一年無病息災であるという

(情報提供:梶並神社)

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法然上人 生誕の地 誕生寺(久米南町)

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誕生寺由来 (2012年11月18日取材)

 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久四年(1193)法力房蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。
 爾来九百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている法然上人(圓光大師)二十五霊場の第一番。
 境内には、誕生椋、片目川、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。(資料提供:美作之国 誕生寺)

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