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取材記事内を検索ワード「寺」で検索した結果,920件の記事が見つかりました。

新屋敷 薮の鼻のお大師様(小田中)

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新屋敷 薮の鼻のお大師様
 新屋敷あたりは昔竹薮が多く、その鼻先(前)薮の鼻となったようだ。その薮の鼻にあるお大師堂は寺町の愛染寺の奥の院であり、1605年金剛寺(岡山市)より畠山快雲が美作の地に来て薮の鼻に庵を建てた。その後に快雲により愛染寺が建立された。又、大師堂境内入ってすぐ右側には上浜恵海尼についての碑がある。現在のお大師堂は3回目の建て替えで新しい。毎月20日に愛染寺の住職、信徒による法会が行われる以前はお遍路さんがよく参ってこられていた。現在でも参ってこられますとのこと。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)

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『津山に残るなつかしの映画チラシ』展(M&Y)

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『津山に残るなつかしの映画チラシ』展  4/4日(土)~2015年6月7日(日)

(同時展示:河野磐 制作の映画ポスター)
映画が娯楽の王様だった時代、津山にも多くの映画館や劇場がありました。
今回は津山で上映された映画の広告チラシ(各映画館が作成した大正期~戦後作品までの貴重なチラシ。総数75点。)を展示しています。懐かしい映画館や映画作品のチラシで、当時の津山の庶民文化を振り返って楽しんでみてください。

また、昭和20年代、河野磐さんが津山市民に映画を告知するため描いた映画ポスターもお借りして飾っています。(2014年4月23日取材)

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医療の発展に貢献した久原家(二階町)

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久原茂良 1858(安政5)年~1927(昭和2)年
 茂良は洪哉の次男として津山で生まれました。最初「木藾」と称しますが、 1884(明治17)年に茂良と改めました。同年、東京大学医学部を卒業し、順天堂病院等で臨床研究を重ねました。1886(明治19)年に帰郷すると、 津山二階町(現・津山市二階町)で医院を開業します。

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久原洪哉生誕190周年記念 津山藩医久原家の幕末・明治

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津山藩医・久原家
 久原家に残された「先祖書」によると、久原家の始祖は森家の家臣熊野角右衛門であると伝えられています。角右衛門はその後、久原宗清良政と名を改めました。
 医家久原家の初代は宗清の跡を継いだ甫雲良賢です。良賢は1677(延宝5)年に幕府の医官であった西玄甫から「阿蘭陀流外科医術免許状」を授けられ、その後1708(宝永5)年に津山藩に藩医として、30人扶持で召抱えられ、椿高下に屋敷を与えられました。良賢以後、久原家は9代洪哉まで代々津山藩医を勤めることになります。

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権ノ庄のお大師様(小田中神田)

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 道祖神の場所から西へ40メートル程進んだところに権ノ庄のお大師様があります。建立された年度は不明ですが、元々紫竹川の氾濫の多い場所を鎮める目的で、紫竹川から少し小高い部分に建てられたいたことが、付近の地名に安岡屋敷そうき畑の地名が残る事から分かります。現在は老朽化の為に平成16年12月に町内会と個人寄付により建て替え落慶法要を済ませました。その後、年二回の老人会の行事として長雲寺の住職の導師作法により法要を営んでおります。(文:つやま城西まるごとまち自慢より抜粋) 2015年4月8日取材

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明治27年(1894)美作津山市街図

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明治27年(1894)美作津山市街図  津山郷土博物館所蔵


明治二十四年八月御届、出版、仝二七年七月訂正出版
明治24年1月調 ・東西町数 二町、 仝 大字 四十三 ◎津山西町 戸数二千四百二十七戸、人口一万一千零七十二人 ◎津山東町 戸数 七百五十八戸、 人口 三千四百五十五人

(2014年7月30日取材)

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長昌山 妙法寺の桜がきれいでした。

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長昌山 妙法寺本堂の前に植えてある枝垂桜です。(2015年4月9日~取材)

 現在の妙法寺本堂は、県の重要文化財に指定されており、正面5間(16.9m)側面(18m)の大きな平面を持った堂宇である。鬼瓦の側面の記載により1653年頃の完成と思われる。他に市の重要文化財に指定されている鰐口がある。

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「従此千年寺道」の石柱(下田邑)

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津山市下田邑に「従此千年寺道」の石柱がある。この石柱は、津山市一宮にある「瑠璃山 本光寺」と下田邑にある「長継山千年寺」(長継が自身の生前墓(寿塔=逆修塔)を建立した寺です。)を結んだものでしょうか?※長継公は津山藩で最も長く藩を統治した人物で、森家の盛衰を見届けた唯一の人物でもある。長継は初代藩主・森忠政公の外孫で、姓は関氏といい、森家の重臣だった。(2014年5月6日取材)

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桜橋(津山市楢)

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 旧因幡往来が加茂川を渡るところに桜橋がある。楢部落の入り口である。楢部落は古くから物資の集散地として栄えていたところである。
 桜橋を東に渡ると川岸に立派な石垣の高燈籠がある。かつて川船の出入りしていた川船港である。加茂川の川船港としては終点である。

 森藩時代は加茂の小中原まで舟が通じていたが、松平藩の時代になり、加茂谷が天領となったので舟運は衰えている。しかし、いかだなどは通じていたようである。この港からは、川下に向かって木材、木炭、米、豆、綿、紙、油、川魚、鉄などが運ばれていた。もちろん旅人も利用している。

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