寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町

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 寺院の縁起と開山
 真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
 伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
 その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
 中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。

 永禄5年(1562)兵火により衰退したこの寺城の一寺院に、空辨という僧侶が来り真言密教の布教と寺院の復興に努めたと作陽誌(1689)記されているが、当寺ではこの空辨上人を初代住職としている。
 下って元禄15年(1702)に、上野国安中城主内藤山城守政森が津山藩主森公にかわって領主となった。その裔内藤丹波守政苗が三河国誉母城主に転封されるや、宝暦12年(1762)密厳寺を内藤家の祈願所として手厚く遇し、また同地内の鶴坂神社、七森神社両社の別当の職とし、維新まで続いていた。
 寺城の地名は、伝によると永正17年(1520)、岩屋城の攻略のさい備前の浦上村宗、松田勝元が、幻住寺よりその麓寺城にいたる多くの寺院を砦として収容したため、この地を寺城と称するようになったと言われる。
 本尊大聖不動明王は、宗祖弘法大師の作と伝えられているが、その厨子の扉には菊花の紋章が輝いている。往古当山は、京都・仁和寺(代々の管長は皇族の方がなる)系統に属していたのではないかとの説もある。(文:真言宗 寺城山密厳寺沿革誌より)

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密厳寺は挙母藩の祈願所となって明治維新までつづいた。又、当寺は鶴坂神社と七森神社の別当寺ともなっていた。

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境内

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半鐘は享保八(1723)年藤原助清作

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大正八年四月十三日には大字中北下への移転が實現されて今日に至っているものである。

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 大字坪井下寺城はの密厳寺跡は、寺城池の土堤下のあたりで、石造の不動明王像があり、「施主密厳寺 大正八年四月十三日自当所中北下移転」となっている。此の不動明王像のあるあたりが山門の跡で、すぐそばの川は今は様子が変っているが以前は不動の滝のあったところだそうである。

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 本寺は蕎麦尾山金剛頂寺であり、本尊は不動明王で、十六の菊の御紋章のある厨子に納められている。

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境内

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境内

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2014年9月18日取材



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綺麗に咲いている花です。

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(2015年7月15日取材)