田外醤油本店≪ヒサゴ醤油について≫
≪ヒサゴ醤油について≫
田外醤油本店の商標はヒサゴ(瓢箪)で、濃口(特選、金印、赤印)、淡口、さしみの5種類を製造していた。中でも、天然醸造された〝ヒサゴ特選しょうゆ〟は1年以上もかけてじっくり熟成させた天然諸味を使用し、自然なもの、純粋なものを目指して味わい一筋に磨き上げた逸品として人気を博した。
≪醤油の種類≫・濃口(特選、金印、赤印)、淡口、さしみの5種類 ・中でも、特選が一番人気であった。
(2017年3月19日取材)
≪ヒサゴ醤油について≫
田外醤油本店の商標はヒサゴ(瓢箪)で、濃口(特選、金印、赤印)、淡口、さしみの5種類を製造していた。中でも、天然醸造された〝ヒサゴ特選しょうゆ〟は1年以上もかけてじっくり熟成させた天然諸味を使用し、自然なもの、純粋なものを目指して味わい一筋に磨き上げた逸品として人気を博した。
≪醤油の種類≫・濃口(特選、金印、赤印)、淡口、さしみの5種類 ・中でも、特選が一番人気であった。
(2017年3月19日取材)
昔、中山神社の「流鏑馬」の神事が行われた時、この橋から一に矢を放っていたと伝えられる。(難波酒造前の橋)。なお、後に人の往来が多くなり、この儀式は一宮構えの西側通路にて行われるようになった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
大庄屋中島家跡 津山市東一宮(現中島遊園)
ここは藩政時代の「大庄屋中島家累代の屋敷跡」である。初代中島孫左衛門は戦国の末期にここに住み、領主宇喜多氏に禄仕した。関ヶ原の戦いに敗れ宇喜多氏除封の後、武を捨て、営農に励み、森・松平両候のもとで大庄屋となり270年の間、その職を世襲し、農村の発展民利の増進の実を挙げ郷土繁栄の基礎を築いた。
その担当地域は、一宮構と呼ばれ東一宮・西一宮・大田・籾保・上横野および下横野の6ヶ村で、ここが支配の中枢であった。(文:『美作一宮 郷土の遺産』より)(2017年2月19日撮影)
大石神社の境内にある義士木像法安殿なのですが、ここには神崎与五郎と茅野和助の木造があるとお聞きし、神崎与五郎や茅野和助がどのような姿だったのかを知りたいと思い訪ねてきました。
説明板によると、「大石神社境内には四十七士の討入り関係遺品、浅野家・大石家に伝わる宝物を展示している義士宝物殿・同別館、義士自刀二百五十年を記念 し当代一流の彫刻家による浅野長矩像を始め四十七義士の木像を納めた義士木像法安殿、大石内蔵助邸長屋門・庭園の四ヶ所が資料館として拝観できる。」だそうです。
出雲街道は出雲往来ともよばれ、古代には畿内から山陽道を通り播磨から出雲を結ぶ官道として機能していました。勝間田には古代の勝田郡衙が置かれ、古来人々や文物が行きかう交通の要衝として栄えていました。
江戸時代に入ると、出雲松江藩や美作勝山藩・津山藩などの諸大名が江戸への参勤交代の交通路とするため、出雲街道が本格的に整備されていきます。それにともなって、各地に宿泊や人馬の継立てを行う宿場が設置されていきます。
勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして発展しました。勝間田宿には、大名や供のものが泊まった旅舎が二つあり、主に津山藩主が宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主、宮家・勅使が宿泊した木村本陣がありました。
安岡の裏には清らかな吉井川の流れ、大きな淵(現在のテトラポット付近)があり、鯉・鮒をはじめ数十種類の魚が生息している。
文化・文政の頃からこの場所では夏になると水練場として多くの子どもから大人まで賑やかに泳いでいました。特に戦後は水泳が盛んになり、夏休みになると西小学区の子どもたち(男は赤フンドシ)が真っ黒く日焼けし、水しぶきをあげたものです。また、この地では神伝流の泳法が盛んで、昭和の三十年頃までは多くの子どもたちはその泳法を習い水泳のできない子どもは皆無の地域でした。
安岡町から吉井川の川原におりると、川の流れの中に昭和40年代中頃まで四角く切り出した石の台があった。我々が子どもの頃にはフナやコイ、ギギなどの魚種が豊富な良い釣り場であったが、ここはもともと江戸期から続く『トウフ』と呼ばれる船着き場であった。ここを見下ろす川土手には今でも金比羅大権現と書かれた石灯籠がたっている。これは江戸期に城下町の一部として安岡町が編入された事で、船頭町から移転した西端の船着き場として高瀬舟や木材の切り出しの筏の往来に使われてきた常夜灯で有るように思われる。(文:津山城西の秘密のお宝が大集合より)
箕作秋坪は1825(文政8)年に菊池士郎と多美の二男として備中国下呰部村(あざえむら)に生まれました。13歳で父を亡くしますが、17歳頃から父の旧友・稲垣研嶽(いながきけんがく)の下で漢学を学び、さらに江戸へ出て箕作阮甫(みつくりげんぽ)に弟子入りしました。
1849(嘉永2)年には、大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入門。この時にはもう箕作家の養子になることが内々に決まっていたようです。翌年、藩に正式に養子として認められ、さらにその翌年、江戸へ戻って阮甫の三女つねと結婚。新進の医師として活動を始めました。この時秋坪は27歳でした。
翌1852(嘉永5)年には、藩主松平斉民(まつだいらなりたみ)のお目見えもいただきました。
旧因幡往来が加茂川を渡るところに桜橋がある。楢部落の入り口である。楢部落は古くから物資の集散地として栄えていたところである。
桜橋を東に渡ると川岸に立派な石垣の高燈籠がある。かつて川船の出入りしていた川船港である。加茂川の川船港としては終点である。
森藩時代は加茂の小中原まで舟が通じていたが、松平藩の時代になり、加茂谷が天領となったので舟運は衰えている。しかし、いかだなどは通じていたようである。この港からは、川下に向かって木材、木炭、米、豆、綿、紙、油、川魚、鉄などが運ばれていた。もちろん旅人も利用している。
下押入の県道兼田上横野線の山西境のところに、元禄年間(1688~1704)に、つくられた花崗岩の道標が立っています。(字建石)
この道標は、東はいなば道、西は加茂道と書いてあります。東はいなば道はわかりますが、西加茂道というのは、」ちょっとふしぎな気持ちがします。西は、津山城下の方角だからです。
よくしらべてみると、道標の西の方、鹿の子橋の手前で、北に行く古い道があります。