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取材記事内を検索ワード「沼」で検索した結果,98件の記事が見つかりました。

沼の住居址に咲くつつじの花がきれいでした。

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2015年4月8日の沼の住居址のつつじが綺麗です。
 ここの竪穴住居の中央部にはイロリがあり、そのイロリを囲んで家族生活が営まれていたようです。竪穴住居址を調査すると、時には紡錘車という糸紡ぎの道具や鉄の 加工具、あるいは石の道具を作る際に出る石くずなども発見されるので、竪穴住居の中では布を織ったり、木や石の道具を作ったりもしていたようです。

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山西ドジョウ(高野山西)

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 ドジョウは淡水産の小魚で、うなぎのような形をしています。大きいもので20センチ。口にひげがあり、味はあっさりして脂肪が少なくビタミンAが多い。
 水の浅い底がどろのところに住み、危険を感じると水をにごらせてどろの中にかくれます。雨の前には水中からうき上がりぽつりと空気をはき、また空気をすって腸まで送る腸呼吸ををするおもしろい魚です。
 ドジョは流れの少ないどろ土の深い所、ちょうど湿田のようなところがぴったりでした。ここはドジョウのいちばんのすみかです。

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情熱のフラメンコ~未来へ~

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2015年3月28日(土)津山鶴山ホテル 2階鶴の間にて(公財)津山文化振興財団主催、市民芸術劇場第114回公演の「情熱のフラメンコ~未来へ~」があり大盛況でしたよ。また、たんぽぽ(ボーカル&ピアノ デュオ)がジャズなどの演奏を聴きながら、お食事・ワンドリンク付で楽しく優雅なひと時が過ごせました。

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弥生の里文化財センター

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沼遺跡と弥生の里文化財センター
 沼遺跡は、弥生時代のムラの遺跡です。昭和26年(1951)の夏に道路の法面に竪穴式住居の断面があることが明かになり、遺跡があることがわかりました。翌昭和27年から昭和49(1974)年にかけて何回かの発掘調査が行われ、竪穴式住居址5軒、建物址3軒などの遺構が見つかっています。また、昭和30年(1955)には竪穴式住居が現地に復元され、歴史学習のための史跡公園として整備されました。

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『今はなき幻の天神人形さまたち』展(M&Y記念館)

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 津山は菅原道真公とは縁がある地域で、八出天満宮の道真公とのいわれをはじめ、旧暦の3月3日には男の子の節句として天神様の土人形を飾る風習もあります。
 今回は、全国各地で廃絶した土人形のさまざまな形や表情の天神様が一堂に展示されました。〔1/24(土)~2/15(日)まで開催されました。〕取材2015年2月15日

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沼の住居跡地の今

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2014年11月6日取材     (前回の取材)

 弥生時代以降、津山は農業を基盤として発達してきました。江 戸時代に津山城が置かれてからも、城下町は周辺の農業集落を背景として成り立っていました。明治時代になってからも、近代産業の発達はたち遅れたため、交 通の要衝(ようしょう)という位置をいかし、周辺の農業収入を背景とした商業を特に発達させてきました。

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桐の木水車(津山市勝部)

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 桐の木水車は津山市内で現役で稼働している共有の米搗き水車としては唯一のものです。昭和30年頃まではどこの村々でも共同で水車が維持管理され、村の生活と田園風景を構成していました。この桐の木水車も昭和初期に建設され地元「水車講連中」により維持されてきました。
 しかし、この間の風雪の中で、破損が進み使用もままならない状況になりつつあり、今回「桐の木水車の会」を結成し、多くの人の協力により水車の修理を行いました。
 この桐の木水車を私たちは津山の農村風景のシンボルとして維持し、次代に伝えていきたいと考えています。(文:案内板より)

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津山の私設美術館・その他のおススメ(お寺・博物館・資料館)

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美術の秋を迎えましたが、津山にはまだまだ素晴らしい美術があるのを私たちは案外知らないのかもしれませんね。一般に公開されているものは数少ないのですが、私設美術館など今まで取材したものを少しまとめておりますのでご覧くださいね。それから、資料館・近隣の美術館なども併せてご紹介。(営業日時や場所は各HPなどでご確認ください。)

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

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文政8年(1825)、呰部教論所の学監 菊池文理の二男として阿賀郡下呰部村(現真庭市下呰部)に生まれる。江戸に出て箕作阮甫に蘭学を学び、後にその養子となった。
文 久元年(1861)、幕命により通商条約実施延期交渉のため、欧州六か国を訪問。また慶応2年(1866)には、北方領土境界交渉のためロシアを訪問する など、幕末の外交交渉に活躍した。維新後、英学塾「三叉学舎」を開設、原敬・東郷平八郎・平沼淑郎ら多くの門人を育成するとともに、森有礼・津田真道・福 沢諭吉らと明六社を興し、明治初期の代表的知識人として知られた。19年(1886)東京で没す。(資料提供:洋学資料館)

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