金比羅様と燈籠(高野山西)
金比羅様(2014年7月3日取材)
山西地区の南の道のそばに、大きな石の燈籠ががあります。その西の丘の上には、金比羅様がおまつりしてあります。
金比羅様といえば、四国讃岐の金比羅様が本社で、有名なお宮です。各地に、山西にあるような金比羅様がまつられています。この地方では、加茂の金比羅様が有名ですが、広野にも、河辺にもあります。
金比羅様(2014年7月3日取材)
山西地区の南の道のそばに、大きな石の燈籠ががあります。その西の丘の上には、金比羅様がおまつりしてあります。
金比羅様といえば、四国讃岐の金比羅様が本社で、有名なお宮です。各地に、山西にあるような金比羅様がまつられています。この地方では、加茂の金比羅様が有名ですが、広野にも、河辺にもあります。
陽地神社 『美作國神社資料』には、「苫田郡高野村大字野宇森 村社 陽地神社 祭神 伊邪那岐神 伊邪那美神 祭日 例祭 十月二十日 祭殿 本殿 拝殿 幣殿 神楽殿 境内坪数 六百参坪 氏子戸数 弐百戸 境内神社 高先神社 祭神 倉稲魂命 由緒沿革 不詳」とあります。
『作陽誌』では、「高野郷野村之記」に「陽地神社大明神 森に在 祭神 大日霊尊或云山田大蛇 本社 拝殿 参籠殿 石鳥居 社地東西南北十六間 祭日 九月九日」、「舊地釈迦大明神と号す往古の軒札なし」の説明とともに「元禄六年癸酉九月 地釈迦大明神」の軒札図を載せ、
『美作國神社資料』には「苫田郡高野村大字高野山西字菅田村社 山西神社 祭神 莬道雅郎皇子 祭日 例祭十月二十日 本殿 拝殿 境内坪数 弐百五拾坪 氏子戸数 八拾個(当時) 由緒沿革 不詳」とあります。「新訂作陽誌」には、「高野郷 高野山西村之記」において、「乙宮大明神 菅田分氏神乙宮に在 祭神 八幡の分神と云ふ 本社三尺五寸四方東向 拝殿二間三間 社地東西五十間許 祭日九月十四日」とあります。境内には、荒神社と天満宮が祀られています。
高良神社 (押入)
『美作國神社資料』には「苫田郡高野村大字押入字押入字上押入 村社 高良神社 祭神 武内宿禰命 祭日 十月二十日 社殿 本殿 神楽殿 氏子数 四十五戸 境内神社 荒神社 祭神 素盞鳴命 由緒沿革 不詳」とあります。『作陽誌』には「高良大明神 一村氏神或いは本郷北村も聯加 祭神 武内大臣 本社 祭日 九月 末社 若宮大明神 境内に在」とあります。祭神の武内宿禰命と武内大臣は同じ神様です。この武内宿禰命は、景行天皇、成務天皇、仲衷天皇、応仁天皇、仁徳天皇の五天皇に仕えること在官二百四十余年の人です。
福力荒神社大祭は、2015年はは2月19日(木)~2月21日(土)の3日間でした。(旧正月)
福力荒神社は、まむし除けと安産の神様として知られています。(蝮除け・子授け・安産・家内安全・学業成就・交通安全・商売繁盛・良縁等の御利益)2008/2014
3ケ日には安産・蝮除け・学業成就など願う10数万人もの参拝者で賑わい、参道には200軒もの露店が立ち並び全国各地から来ている露店で買い物し、お店の人とのトークも楽しめました。
北山に、こあざ五輪谷といわれるところがあります。
ここには、くずれ落ちてうもれた五輪墓の墓石がたくさん出てきます。くわしく調べられていないので、どのくらいの数がうまっているのかわかりません。
今までに、出てきた墓石を一か所に積みあげてありますが、およそ百こ以上もあります。組みたてたら、りっぱな五輪墓となることはまちがいありません。
では、なぜこの地にこのような五輪石がたくさん出てくるのでしょうか。研究している人の話では、ここにお寺があったのだろうということです。五輪石は仏教の墓だからです。
石の大きさやかたちなどから考えて、室町時代から戦国時代のおわりまでのものではないかといわれています。さらに、くわしく調べると、文字のきざまれた石も発見することができるかもしれません。
川中山王
吉井川が林田の南端落合で加茂川と合流し、横山小桁と日上の間を南へ金屋の渡船場に於いて、廣戸川と合流する。この辺から南は川幅も広くなり、東岸は和気山、西岸は長岡の山脈によって好風景を展開し、やがて八足ドロと呼ばれる押淵所属の河中の巖上に、山王の祠が祀られている。その景観は河水の浸食作用によって、長岡山の軟弱部分が流され、強硬な部分が河中にのこされた自然の大巖が島となったものであり、河中に突兀として聳立した奇硝の上に天然の樹木が翠影をもって粧うて居るさまは全く奇観であって、川中山王と唱え徂来人の眼をたのしませたものである。山王祠は天安2年小桁部落にある極楽寺の鎮守として祀られたと伝えられ、明治5年日吉神社と改称し、押淵神社の摂社となった。石の鳥居から峻岨な石段をのぼっての景観又絶佳、両岸の翠峰、吉井川の清流と共に全く画の如きものである。『美作史跡名勝誌』
飯綱神社(津山市高野押入)
『美作國神社資料』には、「苫田郡高野村大字押入字下押入 村社 飯綱神社 祭神 倉稲魂命 祭日 例祭 十月二十日 社殿 本殿 神楽殿 氏子戸数 六拾戸 境内神社 尾鼻神社 祭神 高龗神命 由緒沿革不詳」とあります。
上記写真は、広島市北部を襲った大規模な土石流の被災農家からいただいた稲を細かく粉砕し、ホームセンターで購入した「まさ土」に混ぜてつくった「可部のおにぎり」です。
奈義町町制施行60周年記念/奈義町現代美術館開館20周年記念
「太田三郎 2010-2014」が、2014年11月22日(土)〜12月23日(日)まで奈義町現代美術館ギャラリーにて開催されました。
小野のお通
江戸時代のはじめのころのことです。
高野押入村に、女の子が生まれました。名をお通といいました。小野は、母方の姓です。
お通は5才で、和歌をよみました。10才になると、布を織ることをおぼえ、12才で、むずかしい漢学の本がよめるようになりました。
そのうえ、とても美しい娘だったので、美作の国中で評判になりました。
16才になったときうわさを聞いた都のお金持ちが、およめにほしいともうしこみました。お通は気がすすまないようすでしたが、およめにいくことがきまりました。