山尾神社(一色)旧久米町
山尾神社(大字一色字山尾)
祭神は大山祇命で境内神社に八幡神社と高村神社がある。祭日は例祭が10月17日、祈年祭2月17日、新嘗祭11月17日である。
此のお宮は寛文9(1669)年12月に火災に遭い、御神体と豹犬だけが残り、他の神器旧記悉く焼失したので、由緒沿革を詳にすることが出来ないのは残念なことである。
当社には寛文十戌(1670)年、当時の国主森長継より神具山鉾一筋の献納があり、又同年社殿造営の資として米二石の寄進があった。又寛政10(1798)年10月、文政11(1828)年9月の両度にわたり領主内藤山城神守から米二石宛ての寄進があった。
明治の初年、山王大明神を山王神社と改め、同6年に村社、大正12年12月23日幣饌寄進神社に指定されたけれども、敗戦後これら一切は廃止された。
(文:久米町史より抜粋)2014年9月18日取材
鳥居
境内
拝殿
拝殿
拝殿 本殿
本殿
境内
末社神
伝説
大字一色字山尾にある山尾神社の縁起として次の伝説がある。
元来此の地は山野が多くて人々は皆山に入り山仕事を生業としていた。元慶3年の夏頃から翌年にかけて山でたおれる者が相つぎ、其の上牛馬は悉く死に絶え、村中の8・9割の家は飢をなすといった状態であったがなすべき術もなく困り果てていた。
その時、村人の中に彦七という老人があった。此の老人が或る夜の夜中にむっくりと起き上って大声を張り上げて村人を呼び集め、狂気の様に上座にすわって、「吾は彦七ではない、此の山の神であるぞ、疑うものがあったら即座にいましめるぞ、実は昨年頃から牧場に現われいでてお告げをしても人々はびっくりして逃げてしまって聞こうともしない。高八山に焰火を顕はしても誰も知らぬ顔をして顧みる者も無い。そこでお前達村人を怨んで罪を与えているのである。實に無念である。」と身体動震し、顔色を失って泣きだした。
而して後に又言うのに「吾を牧尾の麓、零山の丑寅の岡に鎮め祀ってくれるならば山幸を与え、其の他の幸福も与えて業に休んぜしめてやる」と告げ終わった彦七は其の後二日二晩食物もとらず眠り続けた後醒めたが何もおぼえていなかった。
村人は元慶5年正月15日、宮を其の岡に建てて「[山王神社]と崇め奉ったところ、それ以来村民安寧、牛馬繁殖したということである。」