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取材記事内を検索ワード「刀」で検索した結果,127件の記事が見つかりました。

極楽山 光厳寺(西寺町)

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 極楽山 光厳寺は、1614年(慶長19)に院庄にいた豪商蔵合氏の願いにより、院庄の清眼寺住職秀照により建てられました。本堂は当時のものといわれ、本尊は不動明王です。子育て不動として有名で、多くの人がお参りしています。不動明王像は、船頭町の田原屋六兵衛が牛窓沖から引き上げられたといわれる等身大のもので平安末期頃に作られたものです。
 蔵合は森忠政の城下町づくりのため、二階町の日専連・津山中央クリニック辺りに呼び寄せられました。初代は隠居秋庵孫左衛門、2代目は山口祐雪。本名は山口氏でしたが、屋号が蔵合屋と名のっていたので2代藩主森永継から「ぞうごう」と呼ばれ、苗字を蔵合と変えました。蔵合山口氏ともいわれました。

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サムハラ神社奥の宮(旧鎮座地)

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 金刀比羅神社を少し上に上った所を右折すると、元サムハラ神社が鎮座されていた祠があります。古より古祠があり、中に石があり何と書いてあるかはわからぬというが、古老はサムハラ様のご神体であると言っていた。田中富三郎氏は、昭和10年(1935年)郷里の日詰山の金刀比羅神社近くにあって荒れていたサムハラの祠を復興するも翌年には岡山県特高課から無許可神社として取り締まりを受け、自主的に撤去しました。今から約80年前です。戦後、昭和21年(1946年)にサムハラ神社奥の宮は再び田中富三郎によって再建されました。それがこの祠です。その後、日詰山の金刀比羅神社近くの現在地に遷座されました。案内してくださったのは金尾文正様です。(2017年6月22日撮影)

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日詰山頂上の大きな木(加茂町)

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加茂の金刀比羅神社やサムハラ神社奥の宮の鎮座されている日詰山のてっぺんに生えているこの木は遠くからでもよく目立っています。この日詰山頂上の木は「楠」で、樹齢不明だそうです。また、地元の方にお尋ねしたところ「展望台そのものは平成12年に、当時の金刀比羅神社の総代長の発案でできたものであり、目的は展望の良さを皆に知って貰いたかったからと聞いている。戦国時代には、あそこには百百城(別名;落合城。秀吉側)があった。そして、毛利勢の髙山城(矢筈城)や川下の津山方面、倉見川方向の谷筋を一望することが出来る最良の場所であったであろう。」とのことでした。(2017年11月23日撮影)

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日詰山の山中に生えていた大きなイヌシデ(ソロノキ)

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 この木何の木、気になる木です。日詰山の金刀比羅神社の近くにある元サムハラ神社旧奥の宮の上にあった木です。これは何の木か深く印象に残っているので撮影しました。(撮影2017年6月22日)
 【新事実発覚!】なんと残念なことに2017年12月13日に加茂町にお住いの金尾さんが調べに行ってくださったときは既に倒れていたそうです。でも、せっかくなので記しておきます。樹種は「イヌシデ(ソロノキ)」というそうです。

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【津山人】国学者 道家大門(旧津山藩士、万葉調歌人 1830-1890)

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 道家大門(ひろかど)は天保元年(1881、旧暦天保元年11月18日が西暦1831年1月1日にあたる)12月10日津山藩士遠藤浦右衛門正利の四男として生まれた。幼名弥作、のち助十郎、順と名乗った。伯父にあたる同藩津田七太夫文行は藩の料理番を務めていたが、津田家の長男真一郎は学問修行のため廃嫡、次男鉄次郎は早逝したため、従兄弟の大門が養子となって津田家を継いだ。一時期津田弥作儲美と称していたが、津田の本姓が道家であることを知り、文久元年(1861)に道家と改姓した。その後料理番より進み、慶應4年(1868)に御刀番、明治維新後に作事奉行となる。同年藩より国学修行を仰せ付けられ、平田鎮胤(平田篤胤養嗣子)に入門した。

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人形仙三十七人墓

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上斎原振興センターより人形仙林道を北上し、美作北2号線との合流点より西側へ50mの所にある。
 この人形仙一帯は、江戸から明治時代にかけてタタラ製鉄が稼業されていた場所でもある。
 明治12年(1879)と19年(1886)に、全国的にコレラが大流行し、それぞれ10万人前後の病死者を出した。人形仙鉄山でも明治12年夏に流行し、当時の鉄山人口の約200人のうち62人がコレラにかかり、37人が死亡した。三十七人墓はその供養である。(文:『鏡野町の文化財』より)(2017年4月30日撮影)

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日上天王山古墳・日上畝山古墳群

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 天王山古墳は平成6年に発掘調査がおこなわれ、美作地方最古の前方後円墳(墳長57m)であることが確認されました。茸石で覆われた墳丘は後円部が三段、前方部は二段に築かれています。前方部はバチ形に開く独特な形で、奈良県の箸墓古墳や岡山市の浦間茶臼山古墳などの最古式前方後円墳とよく似ています。
 後円部中央からは長さ4.2m、幅1mの堅穴式石槨が発見されました。このほか、後円部上では堅穴式石槨1基、箱式石棺2基の埋葬施設も見つかっています。中心となる堅穴式石槨は古く盗掘されていて、副葬品のほとんどが持ち去られていましたが、青銅製品の破片や鉄の刀、斧、鏃などが残っていました。
 もう一つの堅穴式石槨は盗掘されておらず、青銅製品の鏡や鉄剣、たがね、鉄鏃などが埋葬時の状態で出土しました。埴輪は用いられていませんが、東側のくびれ部からお祭りに使われたとみられる二重口縁の壺形土器が発見されています。

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土人形展 (M&Y記念館)

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2017年6月9日に棟方志功・柳井道弘記念館(M&Y記念館)へ出かけて来ました。全国郷土玩具土人形を収集(約2000点)しておられる杉本耕司さんの集められた人形の一部です。現在杉本さんは、津山郷土玩具愛好会を主催されています。次第に作られなくなった(失われていく)物を土俗文化と位置づけて研究されています。城東むかし町家(旧梶村邸)でも展示されています。(年に数回の入れ替え)


曽我五郎・舞鶴
先年市川海老蔵・坂東玉三郎に依り京都・南座にて公演されました。
江戸末期より長野のリンゴ農家の副業として代々製作せれて来ました。
立ヶ花土人形

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元魚町「お祭り麒麟館」の展示風景

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 元魚町「お祭り麒麟館」の展示風景 グリーンライフ津山元魚町の1階(地域交流スペース)に元魚町「お祭り麒麟館」がある。この施設は協同組合 津山銀天街が管理、津山まちづくり倶楽部、協同組合 元魚町商店街、元魚町町内会、徳守だんじり若頭会が展示協力をしている。(文:元魚町『お祭り麒麟館』案内より)(撮影:2017年6月4日)

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ママと7.22津山公演の成功祈願にサムハラ神社へ

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2017年7月12日、毎日のように雨が降る今日この頃ですが、午前中は雨も小降りなので、イナママとお花の取材(あやべ花野みち)を兼ねて出かけてきました。ほんの少しのドライブですが、ママにとっては思いがけない出会いがあり、また、偶然にも、サムハラ神社への参拝も出来て良きドライブとなりました。ちなみに午後からはどしゃ降りの雨でした。

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