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取材記事内を検索ワード「社」で検索した結果,1125件の記事が見つかりました。

森藩政下に移転 山上がりした真言宗の髙福寺

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林田 清應山髙福寺のたたずまい 津山市街東部 野介代の丘陵山麓に清應山髙福寺が所在している。
津山東部では数少ない真言宗の寺院であり、津山市林田667に位置し、町内会は林田山根分に所属している。寺を象徴する大屋根の庫裡、客殿、大師堂や安永年間建立の本堂を始め、鐘楼堂、薬師堂、境内墓地、さらには裏山に四国八十八箇所巡りのミニ霊場を設けるなど、真言宗の必要な設備を全て備えた寺院らしい境内である。

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野介代の薬師如来堂

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野介代のお薬師様 施主 勝田郡植月北村 早瀬兵作。御親戚にもなる菅野昭夫さん(野介代の塞ノ神社奉納)によれば、早瀬氏は出雲のお薬師様の熱心な信者でもあり、とても裕福であったそうで、作州一円に薬師堂を作るといい、職人さんを連れて建てている最中に亡くなったという事でした。ここのお薬師様は十九番目(取材2014年3月11日)



・お薬師堂とは薬師如来(やくしにょらい)という仏さまを祭ってある仏堂、または寺院の一般的な名前。

 薬師如来は現世利益につながる仏として信仰されいて、大小あわせて、日本全国にたくさんの「薬師堂」がある。※現世利益(げんせりえき)=生きているうちに、いいことがあること。(野介代町内会からのおしらせより)

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六十六部(津山市川崎字玉琳)

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津山市玉琳 天下泰平 奉納 大乗妙典六十六部日本廻國 日月清明 文化十一申庚八月吉祥日 東新町 願主 みよ
日本全土66か国を回国し、国ごとに法華経一部ずつ納めることから、この名が起った。66所の霊場も、六十六部の流行にともなって成立したものである。(明治4年11月10日太政官から禁止の布令がでている)

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古大隅神社(津山市林田)

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津山市林田755(若宮谷)。祭神 大巳貴命(オオナムチノミコト)(大国主命)。少彦名命(スクナヒコノミコト)。森忠政が鶴山城の鬼門の守護のため、元和6年(1620)3月23日大隅に遷座した。村民は氏神を失ったので、跡地に小祠を建てて若宮神社と称した。元禄年間(1697~1703)松平藩の時に大隅神社の旧号をとなえるようになった。末社 御先社、三宝荒神社。(取材:2014.6.15)

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今宮神社(津山市川崎字玉琳)

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因幡往来節分岐点近くに祀る今宮(津山市川崎字玉琳の稲葉街道沿いにあります。)

当地の神社は、その昔近江国滋賀郡坂本村の紀澄弥という法師がこの郷に来住して、日吉神社の御分霊を奉祀し、日吉神社として称して祀ったという。爾来、次第に住民が増加し、産土神として尊崇するようになった。神社の南方には今宮と云って紀澄弥を奉祀する社が祀られている。(岡山県神社誌より)

(文:美作の歴史を知る会 宮澤靖彦)(2014年6月23日取材)

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「ご当地グルメでまちづくりの祭典!第9回B-1グランプリin郡山-東北・福島応援特別大会-」出展にむけて総決起集会開催!

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「ご当地グルメでまちづくりの祭典!第9回B-1グランプリin郡山-東北・福島応援特別大会-」出展にかかる安全祈願及び総決起集会の開催

 このたび、津山ホルモンうどん研究会では、10月18日(土)・19日(日)両日に福島県で開催される「ご当地グルメでまちづくりの祭典!第9回B-1グランプリin郡山-東北・福島応援特別大会-」の出展にあたり、次のとおり安全祈願及び総決起集会を行います。


1 日 時 平成26年10月4日(土)
      9:00~  中山神社にて出展にかかる安全祈願
     12:00~  津山観光センター駐車場にて総決起集会
           (観光客への津山ホルモンうどん300食ふるまい)

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出雲街道・因幡往来の分岐点 玉琳の三叉路(津山市川崎字玉琳)

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ここには、信仰に関わる多くの石造物がある。
○回国供養塔《玉琳鎮座の石塔=文化11年(1814)》
回国供養塔は、通称 六部の碑と呼んでいるが、正しくは「全国六十六部廻国供養塔」のことである。世の平穏や民生の安定を願って全国六十余州の有名社寺を行脚して、法華経札を納めて回る編歴の僧侶たちを本来、六十六部と称した。しかし、江戸末期には次第に行脚が大衆化して、村々を回って戸ごとに拝み米や銭のお布施をもらって歩く、遍路姿の巡礼者たちをも総称して六部と言うようになった。彼らは、廻国道中に仲間や村人の協力を得て、往来の多い道筋あたりにこうした供養塔を建立した。
 玉琳の三叉路付近は、人の出入りの盛んなまさに交通の要衝の地であり、近くに日吉神社も在ることから、絶好の位置に鎮座して祀られているといえる。(2014.6.15)

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街道筋に祀る昔ながらの塞の神(津山市玉琳)

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津山市玉琳 文久2年(1862)の地図に道祖神と道路の南側にある。
村境や道路の辻、橋畔、峠などに碑石や祠として祀り、外部から侵入しようとする邪悪な霊や疫病などを遮ったり防ぐ神として信仰された。旅行の安全の神でもあった。
(取材2014.6.15)

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【津山人】箕作秋坪(1825-1886)

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文政8年(1825)、呰部教論所の学監 菊池文理の二男として阿賀郡下呰部村(現真庭市下呰部)に生まれる。江戸に出て箕作阮甫に蘭学を学び、後にその養子となった。
文 久元年(1861)、幕命により通商条約実施延期交渉のため、欧州六か国を訪問。また慶応2年(1866)には、北方領土境界交渉のためロシアを訪問する など、幕末の外交交渉に活躍した。維新後、英学塾「三叉学舎」を開設、原敬・東郷平八郎・平沼淑郎ら多くの門人を育成するとともに、森有礼・津田真道・福 沢諭吉らと明六社を興し、明治初期の代表的知識人として知られた。19年(1886)東京で没す。(資料提供:洋学資料館)

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