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安藤幸夫さん(刀銘 広清)県重要無形文化財

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 安藤幸夫(刀銘広清)さんは、昭和22年2月4日津山市福井生まれ、東京でコック(札幌オリンピックにも関わる)をしながら、昭和40年鎌倉市の研師西村勝政に入門し砥の勉強をしていたそうです。子どもの頃から刀が好きだったので砥をやったが、終始一貫して出来るということで、昭和47年に刀匠(刀匠 小林康宏氏に師事。8年間の修業を経て文化庁から刀匠の認可を受けた。56年郷里の津山に帰り、本格的に作刀を始めたのだそうです。同57年には新作名刀展に初入選する。以後、連続して入選する。

<以下の文章は津山市広報から抜粋>
 日本刀は月に2本しか作ることが許されていませんが、その少ない機会の中で、様々な鉄を使って、研究を重ねています。特に江戸時代以前の鉄砲や釘などの古鉄を探し、鋼に仕立て直し材料にしています。大変手間が掛かり、ほかの刀匠は嫌がりますが、この手間こそが現代に名刀を蘇らせるのだと思っています。
技術というものは、いったん失われてしまうと、蘇らせるのに百年は掛かるものです。ほんの一瞬のことで次の世代に伝統が伝わらなくなってしまう。そんな失われた幻の古刀を自分の手で再現したい。

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福井 伝承の正伝寺(廃寺)本尊十一面観音様

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2013年2月3日(日)取材

 福井の土居地区に、新宮城とかかわって、古い伝承をもつ歴史的にも貴重な観音様が現存している。場所は、火のかま古墳の南、谷をへだてた通称山田といわれる林の中の墓地群の一角にある。ブロックに囲まれた倉庫風の観音堂に安置されており、人よりも大きい、お堂にふつりあいな立派な十一面観音様である。
 神宮山木下伝記によると、この観音様は、現福井八幡宮のできる以前に、その他に建立されていた宝昌山正伝寺ゆかりの本尊様と記されている。
 そもそも、八幡宮の前身宝昌山正伝寺は、新宮城ができたとき、清瀧寺地鎮和尚の勧めで、城の真東に禍事を払い武運長久を守護するお寺として建立された。その本尊として、清瀧寺と同様の十一面千手観音が、京よりわざわざ仏師を呼び寄せて製作され、長元6年(1033年)盛大な祭祀でもって安置され、以後多数の人々の参詣で賑わっていた言う。
 ところが、新宮城が落城した翌年の文治元年(1185年)、縁日の法要のさなか正伝寺が誇る五重の塔より出火し、お寺が全焼する大火となった。危うく本尊の観音様も焼失しそうになった時、熱心な信者により救われたと言う。
 以下、その伝記の記述である。「宝昌山正伝寺観世音縁日にて例年の法会あり、多くの善男善女参詣の最中 九つ下り、五重の塔の中央火の室より突然出火してにわかに燃え上がる。衆人驚き消さんとすれど宝昌山には水乏しければ防ぐ便なく瞬く間に本堂に燃え移りたり。土居平の中に長く仲間奉公して居りたりし岡西喜六と呼びなす者、常に観世音に信心して今日も参詣し居りしに出火に驚き、尊き観音様を焼きては恐れ入ると、直ちに本堂に飛び込んで応援の諸人と厨子を担ぎ出し、暫して土居の畝へ持ち来たり菰を敷いて其の上にも菰をかけて当分雨露をしのぎ、その後粗末なる堂を建立し安置し奉り信仰するところより、霊験あらたかなれば平中の者も追々信仰し~明治維新の神仏混合引き分けの達しにて、西の丘の現在地に移転さられたり。なお、表柱の突石は、正伝寺の突き石にて蓮華形あり。」

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三宝荒神社(下高倉西字多羅)

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三宝荒神社(2012.12.16取材) ※お祭りなど詳しくはこちらをご覧下さい。
 祭神 須佐之男大神 祖先の御霊神 土地の守護神
 例祭 11月3日
由緒沿革 
 地区の吉方乾の山にある当社は、平安時代初期の創建と思われ、前記の三神が三位一体三面六臂の御神像にて鎮座されている。伊邪那岐大神の御子須佐之男大神は、五穀豊穣と諸難疫病退散の神であり、この三神による三宝荒神の大神は家内平穏・親族和睦・家運長久・子孫繁栄を司り、子供の守り神としても厚く信仰されている。お参りの時には御祈念と一緒に次のようにお唱え下さい
 祓え給え 清め給え 守り給え 幸え給え       宮司 水島康司(案内板より)

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徳守神社の「大節分祭」が行われました。

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2013年2月3日(日)午後6時~2回目の豆まきです。

会場の徳守神社には大勢の親子さん、おばぁ~ちゃん、おじぃ~ちゃんが福を求めてお出でになっていましたよ。午後1時から福引きと矢守吉兆授与、午後3時30分から豆まきとみかん投げ、午後6時30分から鬼順次参入、午後6時40分から豆まきとみかん投げがありました。

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三宝荒神社の秋季大祭(下高倉西字大多羅)

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 三宝荒神社(さんぽうこうじんじゃ)

 御祭神は須佐之男大神(すさのうのおおかみ)・祖先の御霊神・土地の守護神である。地区の吉方乾の山にある。平安初期の創建といわれ、御祭神の三神が三位一体(さんみいったい)・三面六臂(さんめんろっぴ)の御神像で鎮座(ちんざ)している。伊邪岐大神(いざなぎのおおかみ)の御子(みこ)須佐之男大神は五穀豊穣(ごこくほうじょう)・緒難疫病退散の神であり、三神による家内平穏・親族和睦・家運長久・子孫繁栄を司り、子どもの守り神としても厚く信仰されている。なお、むかし日照り続きでお米が取れないと「雨乞い」祈願をして、天水の恵を受けた荒神様の「雨乞い」は、たいへん御利益があったと語り伝えられている。

 平成7年、氏子たちの浄財(じょうざい)によって御社を新改築し、装いを新たにしている。主な祭典は、1月1日の祭旦祭(さいたんさい)。11月3日の秋季大祭は30年の歴史をもつ子ども神輿もでて賑やかである。そして12月31日は除夜祭を執り行う。このように地域の人たちの守り神として崇敬(すうけい)され親しまれている。(写真提供:お食事処 たかくら、文:高倉の歴史と文化財より)

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天穂日(あめのほひ)神社(津山市西中字天満)

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 本社は、新野西中の産土神であり、社殿によれば円融天皇の貞元二年(977)西中の天満山に社殿を創立して天穂日命を祀り、天満宮と唱えました。元禄二年には津山森藩の崇敬により本殿が再建され、明治六年には村社に列せられ、西奈加神社に改め、さらに明治十年に天穂日神社に改称しました「(美作神社資料」)。新野まつりには当社の神輿一体が新野山形の稲塚野に神幸せられる。
 各社にはそれぞれ神楽殿があり、この舞台を利用しながら発展したのが横仙歌舞伎である。
 まつりの終わったころから芝居の稽古がはじまり、氏子たちは地下芝居の役者となって芸をきそう。神域は各村々の最高の娯楽場でもあった。

参考文献:(勝北町誌・歴史めぐり資料)(神社と寺院)2012年10月26日取材

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津山教会は明治(1904)に建てられた建物です。

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(創立前史)

1879年9月、金森通倫は、同志社を卒業し、岡山伝道に専心することを決心して、岡山へ来た。ベリー等と共に県下に伝道を開始、津山にも伝道を拡大した。

(創立期)

1890年5月11日、美作国西北条郡津山町(津山町発足)大字美濃人町に津山教会を会員63名で創立。同7月には、貧民救助の活動として、裁縫を教会でする。

その後、1896年8月13日に美濃職人町より京町へ教会堂を移す。1902年から立石岐の名前も出てくる。1903年2月1日には、アメリカ大統領ルーズベルトより共助会に手紙が届く。ホワイト宣教師より伝達。同年9月、田町で教会堂の新築に着手。1904年5月24日、教会堂新築落成し、献堂式を行う。これが現在の会堂と境内地である。1908年1月5日の教会員総会には、土居通憲、立石岐、池村与六郎、田村かの、竹内のぶ等の名前が見受けられる。(津山教会100周年記念誌より抜粋)

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〔谷崎潤一郎〕今田屋旅館へ移る。(速日神社前)

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▲ここで(速日神社)谷崎潤一郎さんが家族で写真を撮っている。
現在この川では鯉が泳いでいて、下流では今でもシジミが採れるそうです。(2012.5.10取材)


昭和20年 12月29日 城内の今田屋旅館へ移る。
昭和21年(1946) 1月 1日 渡辺明氏が夥しい北海道の土産を持ってくる。 
1月 30日 津山の闇市に行き、今津屋橋南で1パイ5円のぜんざいを食べる。   
3月 6日 刑部に疎開していた内田巌画伯が逗留し、谷崎の肖像画を描く。
3月16日 京都へ引き上げるために上洛する。
5月 末 水島宅で送別会をしてもらい、家族ともども京都へ帰る。
8月初め 再び勝山に来て今田屋旅館で「細雪下巻」執筆、荷物を整理して勝山を離れる。


小野はるさんと何かあったらしく、今田ツネさんの所(もと今田屋旅館)に引っ越した。(2階が8畳3間と6畳6間を全部借り切って執筆していた。)
(文:郷土博物館)

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〔谷崎潤一郎〕小野はるさんの離れに落ち着く

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昭和20年(1945) 5月15日 新聞記者で月田出身の岡成志の勧めで津山市八子の松平別邸に疎開。この間、岡氏は死去する。
6月 3日 岡未亡人から勝山に貸間があると知らせてくる。
6月 4日 土井武氏の案内で新町の小野はる氏の離れに決める。
7月 7日 勝山に着き、新町の小野家離れに谷崎夫婦と娘が入る。
後に妻松子の妹2人、松子の従兄弟らも疎開して、近くの呉服屋2階に住む。「細雪」の執筆に取り組む。原稿の写しを野崎益子女史が頼まれた。
食料の調達には福谷の須田伸治郎氏の世話になる。
中町の呉服店水島喜八郎氏と深く交流した。
下町の醤油業河本はな氏とも交際した。
8月13日 永井荷風が谷崎を訪ねてくる。15日には帰る。(疎開日記より)


旦酒店さんから伺ったお話

 勝山は水の綺麗なところで、昔は井戸水が綺麗だったので豆腐と酒を造っていました。酒屋も2軒ありましたが、今は辻さん1軒だけとなりました。それに宿も9軒ありましたが、今は寝泊りだけで2軒しかないのです。
 谷崎さんが勝山に来られたときの姿は、ボロボロの汚い着物だった。それに、沢山の原稿の入った「こおり」を大八車に積んできて近所の旅館の土蔵を借りて荷物を入れたとのこと。また、谷崎さんは金が入ったら大盤振る舞いをしていたそうで、普段は午前中執筆、午後は奥さんと川沿いを散策していたそうです。
 エピソード:小学校の教師になるために勉強していた野崎ますこさんは書が上手だったそうで、谷崎さんの書生を務めることになり、テストを受けたのですが、そのテストがユニークだったそうです。なんでも、奥さんとて書斎には上げないのですが、野崎さんを先に上らせ下からみて、足袋の白さ(足が綺麗かどうか)を見ていたそうです。勿論、野崎さんは無事合格して書生をつとめたそうです。(2012.5.10取材)


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津山に谷崎潤一郎、東山魁夷が来ていた。

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(2012年6月16日取材)愛山松平家墓所の古写真

 津山市田町にある『寿司 よしひら』の得能さんのお宅には、貴重な物が沢山あります。そもそも得能家は秀康を祖とする越前家の第四代目の宣富公が、四国伊予の国(予州)から津山藩の初代として津山に入ってきた元禄11年(三代目の光長の時代に松山にいた)に、殿様に伴って古参取立てで来たのがルーツだそうです。

☆得能家(寿司 よしひら)に今なお伝わる資料が残っている。その中の一部を抜粋!

 得能良平さんの祖父が、松平家務所に家族で住み宕々庵の維持管理全般をしていた時、松平氏の親族 渡辺明氏(渡辺明氏は松平氏の弟であるが、渡辺家に養子に行っていた。谷崎婦人の松子さんと渡辺婦人の渡辺里子さんは姉妹)の縁で谷崎潤一郎が津山にやって来た。その時の『備忘録』が残っている。

 また、得能家(現よしひら)に東山魁夷が訪れていた。その他地図や雑誌、写真など諸々の資料。

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