狩野 久先生と石舞台古墳を巡る
2016年4月24日「狩野久先生と巡る飛鳥の旅」行程の一つ、石舞台古墳を見学してきました。
石舞台古墳の解説
この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
2016年4月24日「狩野久先生と巡る飛鳥の旅」行程の一つ、石舞台古墳を見学してきました。
石舞台古墳の解説
この石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。既に古墳上部の封土は失われ巨大な天井石が露出した姿になっています。被葬者は不明ですが、6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
祭神は天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神であり、サムハラは三神の総称である。奥の院が美作加茂(岡山県津山市)にある。 1935年(昭和10年)に田中富三郎が出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市加茂町)にて小さなほこらの荒廃を嘆き再興したのが本社の起源。しかし翌年岡山県特高課から無許可神社で商品広告しているとして自主撤去を求められ、サムハラ信光会は11月27日に解消し、撤去を行った。戦後ほこらは再建され、神社は大阪中之島の豊国神社隣接地に自費で建立。1961年(昭和36年)に現在地へ移築遷宮された。隣接地に大阪府警察の機動警ら隊がいる。(文:ウィキペディアより抜粋)(2017年8月11日撮影)
号砲
この大砲は、全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm 先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。
1863年、幕府の命令により、美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。
明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」「お午のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12年~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。(文:大阪城現地説明板より)(2017年8月11日撮影)
2017年3月4日(土)朝6時清龍寺を出発して日帰りで四国八十八ケ所霊場巡拝に出かけてきました。
今回は31番の竹林寺から36番の青竜寺までの6ヶ寺で大型バス運転手2名の同行です。順路は第35番 清滝寺 ⇒ 第36番 青竜寺 ⇒ 第34番 種間寺 ⇒ 第33番 雪蹊寺 ⇒ 第32番 禅師峰寺 ⇒ 第31番 竹林寺の順番でした。
2016年10月26日・27日に津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝、第18番札所~第30番札所まで(一泊二日)に参加させていただきました。その時の様子をまとめてみました。今回は第25番~第30番までをご紹介します。
2016年10月26日・27日に津山市河面にある墨池山 清龍寺さんの四国八十八ヶ所霊場巡拝(四国を一周ぐるりと囲むように点在する弘法大師空海ゆかりの八十八の札所寺院)、初回は第18番札所~第30番札所まで(一泊二日)に参加させていただきました。その時の様子をまとめてみました。今回は第18番~第24番までをご紹介します。
宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した三層六階建ての望楼形天守閣で、城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた時期の構造的特徴を伝えていました。城主の権威を象徴する書院造りの居間(城主の間)が設けてあり、初期の天守閣の性格を物語っています。昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に再建され、城主の間も復元されています。
広島城は、現在の広島県広島市中区基町に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していたが、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである。(文:ウィキペディアより)(2016年12月31日撮影)
「ひろしまドリミネーション2016」(2016年11月17日~2017年1月3日 17:30~22:30)は、平和大通りの緑地帯を中心に美しくライトアップする冬の一大イベントだとホテルでお聞きして、早速出かけてみました。今年は「おとぎの国」がコンセプトだそうで約140万球の光が灯ったそうです。通りには海外の方やお友達・家族といったバラエティーに富んだ人々が楽しんでおられました。今年は宮島で初日の出を見ようと31日に津山を出て広島泊、元旦を津山以外で過すのは初めてでした。せっかくなので紹介してみました。(2016年12月31日撮影)
豊国神社 [ほうこくじんじゃ] 国重要文化財
通称:千畳閣[せんじょうかく]
桁行13間約24m 梁間8間約15m 単層本瓦葺入母屋 木造の大経堂
豊臣秀吉公が、千部経の転読供養をするため天正15年(1587)発願し、安国寺恵瓊[あんこくじえけい]に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉公と加藤清正公が祀られ、豊国神社となっています。
入母屋造りの大伽藍で857畳の畳を敷くことができ、軒瓦には金箔が押してあることから完成していれば、さぞや豪華な桃山文化を取り入れた大経堂になっていたと思われます。
また堂内には、大鳥居が明治8年に建替えられた時に使った尺定規があります。
本尊の釈迦如来[しゃかにょらい]・阿難尊者[あなんそんじゃ]・迦葉尊者[かしょうそんじゃ]は、明治維新の神仏分離令のときに大願寺に移されています。
(文:一般社団法人 宮島観光協会HPより抜粋)