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取材記事内をタグ「出雲街道」で検索した結果,31件の記事が見つかりました。

西尾与九郎屋敷跡(中北上)

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西尾与九郎屋敷跡(岩屋)
 天正9年(1581)6月、宇喜多氏の支配下にあった岩屋城を毛利氏は32人の決死隊をもって「落とし雪隠」より攻め落城させた。勝利に貢献した西尾与九郎は毛利より感状(表彰状)を受けた。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)

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西の茶屋(河本亮一氏宅・鶴坂)

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 鶴坂頂上にあり、峠越えにふさわしい休憩所であった。「出雲街道 鶴坂」の石柱がある。鶴坂は津山から平坦な道が続く出雲街道の中では最初の峠で難所であった。かつてはこの峠に至る8本の小道があり、当時はこの峠が地域においても交通上重要な位置を占めていたようである。大井西村役場もあった所である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

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新庄村の脇本陣へ見学に行って来ました。

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 2018年10月2日に出雲街道新庄村で山中一揆についてお話を伺って来ました。その後、がいせん桜通り、今井河原刑場跡等を見学してきました。約290年前に子孫や地域のために立ち上がった人々がいたことを後世にどう継承していくかが課題です。


 江戸時代から現存し公開されている脇本陣は全国の中でも6ヶ所だそうで、ここ新庄村の脇本陣はそのうちの一つで、江戸時代後期に建てられています。また、ここには松江藩の飛脚の宿もおかれていたそうです。なんとも落ち着いた風情のある村です。

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出雲街道を歩く(河辺から津山城下)

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第110回 文化財めぐり 特別展「行列を組む武士たち」関連事業として、出雲街道を歩く(河辺から津山城下)が、2016年10月29日(10時20分~)津山郷土博物館主催であり参加して来ました。津山藩主の参勤交代には出雲街道が使われています。今回は河辺から津山城下までの出雲街道を歩いてきました。
ルート 河辺バス停前→河辺上之町→兼田橋→川﨑→玉琳→東松原→古林田→荒神曲り・大曲り→宮川大橋→京橋門跡「文:津山郷土博物館作成の当日配付資料より抜粋」

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出雲街道を歩こう会「新庄宿」(レポートその2)

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2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。レポートその2は、嵐ヶ乢~新庄宿までです。秋の日、暑くもなし寒くもなしのハイキング日和で、ワイワイガヤガヤ賑やかに歩いてきました。後鳥羽上皇旧跡では、地元の方が甘酒を用意して待っていてくださり感激でした。また、しだれ栗の木にはビックリでした。

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出雲街道を歩こう会「新庄宿」(レポートその1)

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2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。今回が出雲街道歩きは最終回とのお話で50名の定員を大幅に超える78名の参加がありました。10:30分受付を済ませ、新庄村ふれあいセンターで美味しい昼食を取った後、12:00バスにて乢根(たわね)まで行き、四十曲峠を超えて来ました。レポートその1は四十曲峠~嵐ヶ乢まで。

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北家と後醍醐天皇説(中北上)

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 出雲街道に沿って大きなお宅があるのでお尋ねしてきました。当主の北平也さんにお尋ねしたら、この北家はおよそ900年前から続いておられるのだそうです。当所北家はここから2kmほど東にあったそうですが、火災に遭い200年前に現在地に移って来られ、その後、約80年前に大修理をなさったそうです。向かって右隣には造り酒屋で北家の分家の北酒蔵があったとのことです。(2016年8月11日撮影)

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出雲街道と勝間田宿

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 出雲街道は出雲往来ともよばれ、古代には畿内から山陽道を通り播磨から出雲を結ぶ官道として機能していました。勝間田には古代の勝田郡衙が置かれ、古来人々や文物が行きかう交通の要衝として栄えていました。
 江戸時代に入ると、出雲松江藩や美作勝山藩・津山藩などの諸大名が江戸への参勤交代の交通路とするため、出雲街道が本格的に整備されていきます。それにともなって、各地に宿泊や人馬の継立てを行う宿場が設置されていきます。
 勝間田は参勤交代の宿場町として整備され、美作七宿のひとつとして発展しました。勝間田宿には、大名や供のものが泊まった旅舎が二つあり、主に津山藩主が宿泊した下山本陣と、松江・勝山藩主、宮家・勅使が宿泊した木村本陣がありました。

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出雲街道・坪井宿

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出雲街道・坪井宿(江戸前期~)
 坪井宿は江戸期の宿場町であり、津山から西へ約14㌔のところにある。現在は国道がこの町の北側を迂回しており、宿場町の面影を残す住宅地となっている。
 大正末期ごろまでは、宿場町の中央には水路が引き込まれ、それに沿って柳などを植えた並木があり、西から東に流れる水路の両側にはそれぞれ幅約2間(約3.6㍍)の道があった。北側の道は出雲街道で旅籠などが並び、旅人などが通る道で、南側の道は里道といい、村人の利用する道であった。まち並みのつくりが麦飯の粒の形に似ていることから麦飯町とも呼ばれていた。中央に水路のある宿場町の定形であった。現在、水路は道路の南端に移され、並木もなくなったが、明治・大正期の木造厨子2階建てや、2階建て瓦葺きの民家が並んでいる。漆喰塗壁、腰板張り、虫籠窓、格子窓、出格子、ナマコ壁、防火用袖壁もかなり残っており、宿場町の風情が感じられる。町の中央近くには、陣屋跡や石造りの常夜灯がある。

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出雲街道 下山本陣(勝央町)

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出雲街道と下山本陣
 出雲街道は、ほぼ現在の国道179号線及び181号線に沿って播州姫路から雲州松江に至る藩政期の街道である。作東町杉坂峠から美作町北山・上相を経て、勝央町から津山市内に入る。当地勝間田は、江戸時代に美作・出雲など各藩主の江戸参勤交代の宿場として栄えた宿場町である。古くは商家が軒を連ね、その中を貫く街道の片側には小川をつくり、滝川の水を引いて流していた。終戦直後まで、きれいな水がながれ食器などを洗う風景がみられたが、今はその面影はなく溝だけが残っている。町並みも大きく変わったが、瓦葺き屋根に卯建が上がり、格子戸の家が今もところどころに残り、往時を偲ばせてくれる。

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