出雲街道 坪井宿

5-30坪井宿2.jpg

坪井宿(別名「麦飯町」とも呼ぶ)
 坪井の町は、津山から西へ3里(12㎞)北は国道181号線、南は七森川に挟まれた静かな町で、今も昔をしのぶ家並みが残っています。
◎坪井宿場の成り立ち
 中世から戦乱により、天正7年(1579)河本城(構の城)が落城、続いて岩屋城も天正18年(1590)野火により廃城となり多くの武将・家臣団の帰農が始まり付近に居を構えた。これが集落の始まりではないかと言われている。集落は、久米川沿いの山根市場、後坪井、薬師堂一帯に作られたという。(故安藤貞郎氏が成人大学で受講記録より)
 また、元亀元年(1570)・承応3年(1654)・延宝元年(1673)・延宝8年(1680)・元禄15年(1702)・放映4年(1707)と美作地方に、暴風雨・大洪水が6回あったと記録されており、久米川も大洪水となり、山根市場、後坪井、薬師堂一帯が流失、その後住民は現在の坪井に移住したと伝えられている。

5-30坪井宿4.jpg5-30坪井宿3.jpg

◎坪井の名前の由来は
 二説あり一つは、天正年間(1573~1592)河本肥後守が坪日山に砦を築いたことにより「坪日」転じて「坪井」と云う説と、砦北側の平地に薬師堂があり、その傍に「湯坪」(温泉)があり「湯坪」転じて「坪湯」から「坪井」になったと云う二説がある。

5-30坪井宿6.jpg5-30坪井宿1.jpg

坪井の宿場跡

5-30坪井宿8.jpg5-30坪井宿5.jpg

坪井宿の対面(2019年5月30日撮影)


慶長8年(1603)徳川家康征夷大将軍となる。
同 年    森忠政公(森蘭丸の弟)津山に美作守護として入国。
慶長9年(1604)江戸幕府が官道(五街道)制定と同時に整備され、旅人に行慶程を知らせ旅の趣を増し、木陰を与えた。街道の整備一里塚を設けた。 

坪井宿の成り立ち
 津山藩森忠政公は幕命により、美作地方の主要な往来に一里塚を設置した。一里塚は、約9m四方に土を盛り、中央に堠樹(一里塚に植える目印の木)を植えた塚で、坪井の堠樹は松の木で明治初年ごろまであったとのことである。
 また、宿場町には、中央に用水路を作る等計画的整備をした。
 坪井宿は、中央に用水路があり、北側が「出雲街道」(巾2間)旅籠が軒を並べており、南側を「里道」(巾2間)と云い店が並び宿場内での行事・祭り・催し物等をしていたようである。
 水路の長さは515間(約927m)で、柳の並木があり、水路沿いに四基の石灯籠があり、夜は宿場を明るくしてくれたと云う。『水路沿いに石灯籠が四基並び、柳が植えられ、夏風にゆれるのどかな風情であった』と古老が話してくれた。
 寛永元年(1624)坪井宿に日用品の販売が許可された、この様にして、坪井はこの地方一帯の集落の中心的役割を果たすようになった。
 また、元禄末期(1700)頃久米郡北部50数ヶ村の中で宿場とするのは坪井以外にない。
 その理由は あげられるそうです
 元禄15年(1702)久米北条郡12ヶ村 内藤家の飛び地となり坪井に陣屋を置く。
 享保5年(1720) 大谷山論起こる。
 享保26年(1726) 大谷山論坪井下勝訴となる。
 文化6年(1809) 坪井山称念寺に、美作の国誕生寺山主より、同寺の宝物であった「聖観世音菩薩立像」(行基作)が寄進され、同年3月に御開帳された。称念寺では、子授け・安産守護の尊体「子安観音菩薩」として捧持され、旧暦7月17日の縁日には、地元に人はもとより近郊の善男善女の参拝者で賑わっていたと古老は語ってくれた。
 文政9年(1826)稲荷宮・天保8年(1837)稲荷宮・嘉永5年(1852)七森宮・安政2年(1855)金毘羅宮の石灯籠を坪井宿の水路のわきに建立。
 この様にして、坪井宿は、この地方の政治・経済・宗教等の中心的な役割を持つ町として、繁栄していった。

その後の坪井
 慶応3年(1867)  大政奉還
 明治元年(1868) 明治維新
 明治5年(1872)  坪井郵便局を開設する。
 明治6年(1873)  坪井挙母藩陣屋後に小学校を開設する。喬松小学校と命名する。
 明治14年(1881) 坪井に大火あり、東町36世帯80余棟消失。
 明治19年(1886) 坪井警察署を開設。
 明治40年(1907) 坪井に大火あり、坪井下を疫病・火災から守るために坪井宿の上下「愛宕様」を祀る
 大正元年(1912) 坪井に電話が開通する。
 大正8年(1919) 大井西地区に電灯がつく。
 大正12年(1923) 作備線(姫新線) 津山~追分間開通
 大正15年(1926) 坪井宿の中央用水路を埋め南側に移す。
 昭和2年(1927) 久世旭乗り合いバス 久世~津山間開通する。

 以上、当地区には、ほぼ中央を出雲街道が貫通しており、坪井には出雲と播磨を結ぶ交通の要衝として の宿場があった。また、日用品の商いを許可され、久米北条郡12ヶ村 内藤家の飛び地となり坪井に陣屋 を置いた。このような歴史的環境の中で発展し、多くの文化遺産や史跡がある。しかし、時代とともに その面影が薄れつつある現在、これらの先人の偉業を次世代に継承しなければならないと考えています。
(分:坪井 真家さまより)


この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます。