
津山の今昔を辿ってみました。(1)

行啓道路(津山市山下)

アルネが出来る前の吹屋町界隈の写真

明治時代に「押入」と「小原」に温泉があった。

2016年10月22日(土)第7回出雲街道を歩こう会(主催:出雲街道新庄宿町づくりの会・出雲街道勝山宿の会)があり参加して来ました。レポートその2は、嵐ヶ乢~新庄宿までです。秋の日、暑くもなし寒くもなしのハイキング日和で、ワイワイガヤガヤ賑やかに歩いてきました。後鳥羽上皇旧跡では、地元の方が甘酒を用意して待っていてくださり感激でした。また、しだれ栗の木にはビックリでした。
後鳥羽上皇跡
杉並木道
街道を彷彿とさせる、見事な杉並木が連なる、街道らしい風景である。
後鳥羽公園では地元の方が作られた甘酒のお接待がありました。
後鳥羽上皇旧跡にて
御水池
元弘2年(1332)乢は再び配流の道となり、後醍醐帝が「しだれ栗」近くに帝が飲まれたと言う「湧水」があり、今もこんこんと湧きでている。
しだれ栗
しだれ栗
「美作と伯耆のなか山をこえさせ給ふに、むかひの峰に細道あり、いづくへ通ふぞと問はせ給ふに、古き道にていまは人もかよはずと申しければ、みやこ人たれふみそめてかよひけむ、むかしの道のなつかしきかな」と記され、上皇ゆかりと伝わる「しだれ栗」が繁っている。
後鳥羽公園 後鳥羽上皇がこの岩ですった墨で御歌をよまれたという岩
後鳥羽上皇が配流の際、ここを通行されたと伝わっている。
今は訪れる人もまれで、歴史の闇の中にひっそりと鎮まり返っている。
ここら一帯は、上皇とその後の、後醍醐天皇の史跡で溢れていて、歴史の話題豊富である。
一里塚跡 杉並木の道に、一里塚跡の標識が建っている。
配流の道
隠岐遠流に関する伝承が、後鳥羽上皇、後醍醐天皇の通った道として、当時の姿をわずかながら止めて残されている。
五人塚
石を積み重ねた場所があり、五人塚という。
昔、戦国時代に大熊長者が財宝を隠匿するため、場所が漏れるのを防ぐため、この仕事をした5名の職人を殺害して埋めたと伝わっている。
この事を哀れんだ近所の人が、塚を立て供養した。
地神 力士塚
戸島の集落に入ると、地神と並んで力士塚があり、力士滝の音は、出雲藩お抱えの稲妻雷五郎の門弟であり、地元出身の力士であったと言う。
出雲街道を歩く
行く先々で出逢った野の花です。
供養塔 新庄宿に向けて歩く
新庄宿(宿場町)
新庄宿は美作の国の最西端に位置し、その西北は伯耆の国となり、国境の峠の名称は四十曲峠と言い、箱根越え、碓氷峠と同様に三大難所と言われ、旅人は大変難渋をした道中でした。峠を越えて来た旅人は、新庄宿にて峠越えの疲れを癒し、これから越す旅人は、英気を養って宿泊し、旅立って行った事でしょう。
新庄宿が本格的に成立したのは、出雲から美作の道を松平直政が、間地峠から四十曲峠を、整備改修させた寛文年間(1661~1673)頃から、参勤交代の本道となった以前の寛永年間から、寛文年間には宿場として整備されたと考えられている。
宿の名物の並木の凱旋桜は、日露戦争の祝勝記念として、御幸橋から町外れまでの360m間へ、360本の桜を明治39年に植樹したものである。
新庄村役場 無事に新庄ふれあいセンターへ辿り着きました。
皆様お疲れ様でした。とても楽しかったです。(文:案内資料より)