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中山神社のお田植え祭

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中山神社のお田植え祭(2011.4.29)

古来より牛馬の神として名高い。慶雲4年(707)の創建と伝えられる美作国の一宮。永禄2年(1559)に再建された本殿は国指定重要文化財。入母屋造と妻入に特徴のある神社建築様式が見られる。この建築様式は「中山造り」といわれ、美作地方における神社建築の主流となっている。神門は津山市指定重要文化財。また奥宮には『今昔物語』にも出てくる猿神社がある。
●中山神社お田植祭/4月29日/笛や太鼓に合わせて雌雄の獅子が舞い、鍬人が鍬を振って苗を植える様を演じる五穀豊穣を祈る祭り。(津山市HPより)

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嵯峨山(さら山)城跡、満開のつつじ

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▲2011年4月22日の美作国嵯峨山城跡は、つつじが満開です。(2011年3月に登ったときの様子)

久米の佐良山については作陽誌に【嵯峨山城跡とは】
「佐良山付古城 在中島村倭歌の詠ずるところの久米の佐良山はこれなり。一名嵯峨山と名づく。或人は言う、篠山と嵯峨山とは相去ること遠からず。何れがその佐良山たるかを詳しくせず。しかも篠山は佐良山村に在り、嵯峨山は中島村在る。佐良山に在るを以って真となすべきと言う。この説は是ならず。古は中島村、古城村、暮田村、佐良村は一村なり。総べてこれを佐良村と言う。近来邑里分割し山川の隋判は其原を詳しくせず、これに疑有り。今山上を縦目するに、風景は嵯峨山を勝となす。真の名山はただこの山なるかと記されている。
  なお篠山をもってこれに擬し、或いは神南備山をもって佐良山に擬するなど諸説に分かれているが、この嵯峨山には文化13年(1816年)秋8月に小島広厚誌、太田貞幹書両氏により佐良山の碑が建立されている。この碑文によると、一応この山をもって佐良山としている。

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院の庄【津山市院庄地域】

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▲院の庄地図(2011.4.16)。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 院庄の地は美作の略(ほぼ)中央にあたり、西から東に吉井川が流れ土地は平坦で水陸交通の便に恵まれ上古より美作の中心として栄えて来た所である。
 崇神天皇の御宇(316-391)諸国に神戸(じんご)を定め給うや吉備の神戸は苫西郡神戸郷に置かれたと、古書にあるから、それが立地条件から見て院庄の地であることは容易に諾ける。神戸とは諸国総鎮守の祭典、修理の用に充てるための領地で、美作一宮即ち中山神社、美作二宮即ち高野神社の神領になる訳である。
また、大化の改新の昔、院庄平野条理(現在の農地基盤整備)が行われていることから推しても、古くから肥沃な耕地が開けていたことが伺われる。下って王朝時代後鳥羽院の荘園となり、ここから院の荘(庄)の名が生まれたことは広く世に知られているところである。
 次いで源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めるに当たって諸国に守護職を置き地方の統治を行ったが美作守護職の館は院庄に置かれており、今の作楽神社境内がその遺跡を留めている。
元弘2年、後醍醐天皇は北条高時のために捕えられて隠岐に遷(うつ)されたが、その途中院庄の守護職館に3泊4日御逗留(とうりゅう)になったと伝えられている。その時備前の国の住人児島高徳が、ひそかに行在所に忍び入り桜を削って有名な「天勾践ヲ空シウスル莫レ時二范蠡無キニシモ非ズ」の十字の詩を書き記し、聖慮を慰め奉ったことは余りにも有名である。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しに してはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。

天皇御駐輦中の御製に次の二首がある。
あはれとはなれも見るらむわが民を
   思ふこころは今もかはらず

よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
   民のかまどをかくて見むとは

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構城址【津山市院庄地区】

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構の城(2011.4.16貞考母子の碑より望む)
 津山市院庄字構にあり、一町四方が城域となっている。はじめ院庄城といったが築城の年代は明らかではない。
 正平15年(1360)、山名時氏とその子師義は兵4千5百騎を率いて赤松貞範の属城を攻めようとして、その将小池中書、福依八右衛門を篠向城(真庭郡久世町大庭)に、淀井丹波守、武田刑部左衛門を高田城(真庭郡勝山町)に向わせ、自分は精兵をもって院庄城を囲んだ。城兵は僅かに六百余りであったので、城将江見八郎兵衛景信および住井吉行、渡辺刑部少輔等は敗死して城は落ちた。村の東南に墓趾があり、この地を吉行といっている。正平17年6月(1362)、山名時氏はまた兵5千を率いて院庄に入り、近国の諸将を招いて備前備中の諸国に向かった。
 その後康正2年(1455)、城将山名掃部頭の上洛の虚に乗じて赤松氏の将中村五郎左衛門が来攻した。掃部頭の子は戦に敗れ城を棄てて伯耆に逃れた。次いで山名氏が大挙来襲し互いに勝敗があって、戦の止むことがなかったという。

元亀2年(1571)、宇喜多氏の将花房職秀が来攻して杉山為国と戦ったが為国は戦死し、職秀の将難波信明もまた戦没した。その墓趾は院庄の西方西町にある。
これより後院庄城を改めて構城とし宇喜多氏は片山秀胤にこれを与えた。天正11年(1583)6月、毛利の兵が構城を攻略したので宇喜多の将花房職之兵を率いて構城を囲み奪い返した。秀家は芦田馬之丞およびその子作内に命じてこれを守らせた。
宇喜多氏が亡んで、慶長8年森氏が入封するに及んで構城を修築しようとして1年余り院庄に留まったが事情があって中止し、今の津山に築城した。寛永15年(1638)、その城跡を壊して大部分を農地とした。
注 天正年間、作備線(現在の国鉄姫新線)の敷設工事のため土砂が掘り採られて、今は本丸跡の一部を残して農地となった。現在その一角に貞考母子の碑が建っている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

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貞孝母子の碑【津山市院庄地区】

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貞孝母子の碑(2011.3.22)
 大字院庄の構城趾にある。
 文久の頃院庄に島田馬之丞というものがあったが、生来病弱で農耕もできないため家運も傾いていたが、妻と娘は昼は野良仕事をし、夜は内職等して一日たりとも休まず一生懸命働いて家計を維持していた。
 馬之丞は家族の苦労を見かねて、つい出来心を起し他家の酒粕を盗んで売り家計を助けようとしたが、発覚して捕まえられ獄に投ぜられた。母子は大いに悲しんで夫の身代わりとなって家の恥を辱ごうと決心し遺書を認めて、酒粕を盗んだのは自分等母子であって父親は無実であることを訴えて母子共に自害して果てた。時に文久元年4月29日であったという。
 遺書は郡の役所に差し出されたので、官では母子の心情を憐んで馬之丞を釈放し、村人に命じて母子を手厚く葬らせた。
 馬之丞は悔悟剃髪して院庄清眼寺に入り、母子の冥福を祈ったという。
 たまたま津山藩士鞍懸吉寅(後、津山藩権大参事となる)の知るところとなり、慶応3年その七回忌にあたり、院庄構城趾に建碑して「貞烈純孝島田母子之碑」としたのである。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 

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吉田神社【津山市院庄地区】

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▲吉田神社(2011.4.16)

 津山市神戸字神戸本庄防292番地にあり、祭神は天児屋根の命(あめのこみこと)ほか七柱の神を祀ってある。明治40年、神饌幣帛供進神社に指定せられた。
創立の年月日は不詳であるが、社伝によると、承久三年(1221)、後鳥羽上皇は北条義時のため隠岐の国に流される途次、后宮が御病気になられたので、上皇は美作国神戸郷院荘に御駐輦され、皇運恢復万民安楽の御祈祷を行われるため行在所の西北に方る清浄な地を撰んで諸神を祭られた跡と伝えられ、以来神戸村および院庄村の氏神とされた。寛文四年(1665)、国主森長継が巨費を投じて現在の地に勧請されたことが棟札社伝に明記されているという。
その旧跡は宇古宮の地名として盛土が残っている。長継が造営した社殿は高さ一丈七尺、桁梁二間四方もある美麗を尽くしたもので、同時に社領七反歩も寄進されたという。祭神は京都の吉田神社、奈良の春日神社と同一で、何れも藤原氏の先祖を祭るものとして朝廷や公家の信仰が厚かったものである。長継が何故社殿を移転したかについては詳でないが、苫田郡誌によると「長継深く心を民生に注ぎ大いに力を荒蕪地の開墾及農桑の奨励に致せり。慶安元年には西々条郡布原の原野を開きて香々美川の水を注がしめ、承応元年もじゃ田圃の間に家居する農民に令して山麓に徒居せしめ以って良地を墳塞するの弊を除かしめ」云々とあるから、現在の吉田神社境内は昔から度重なる吉井川の氾濫で砂礫が堆積して河原状の土地であったというから、そこに神社を移し、跡地を耕地とする目的があったのではあるまいか。(院庄公民館創立10周年記念「院庄誌」より)

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女院畔(にょいんぐろ)【津山市院庄地区】

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▲女院畔(にょいんぐろ)2011.3.22

 大字院庄字女院畔107ノ1番地の田圃中にあり、陸上に植えてあった古松は枯れ、墓趾も崩れて小さくなっている。昔、承久の変(1221)に後鳥羽上皇は北条義時のために捕らえられて隠岐へ遷されたが、途中后宮が病を発せられたので院庄に御駐輦になり、病気平癒のご祈祷をせられたが遂に薨去されたのでここに葬られたという。因に后宮は伊賀の局と申され、祈祷所の跡は吉田神社として神戸の氏神となっている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

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篠山城跡【さら山地区】

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▲篠山城跡(2011.4.10)

  早春の佐良山の東面に位置する山々は、可憐な白い花弁を一杯に広げた純白の「辛夷」の花で彩られます。その中でも一番美しい群生を見せる場所として、「篠山」があげられます。
 佐良山には「佐良山三座」と称される山々があります。「嵯峨山」「神南備山」そしてこの「篠山」です。古歌に「美作や久米のさら山さらさらに わが名は立てじ萬代までに」と謡われた「久米のさら山」を巡って、諸説が飛び交いいまだ決着を見ていない佐良山を取り巻く秀峰をいつしか「佐良山三座」と呼ぶようになりました。
 ちなみに嵯峨山には、これぞ「久米のさら山」であるという「佐良山碑」(市文化財)が津山藩により1816年に建立されていますが、それはそれとして佐良山の人たちはこの美しい山々をこだわりなく誇りに思っていると思われます。

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中須賀船着場石灯籠

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▲中須賀船着場石灯籠(2011.4.10)

中須賀は、吉井川の船便を利用し、下流にある備前国との交易をする物資の集積地として、また宿場町として栄えた地で、出雲街道の要衝のひとつであった。

ここにある三基の灯籠は、航路の安全を祈る為に建てられたもので、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(明治元年11月吉日)の石灯籠が、また、吉井川沿いには金比羅宮(嘉永7年10月吉日)と刻まれた石灯籠が建てられ、常夜灯として昭和10年代頃まで各家順番で点火していたということである。

その後、これらの石灯籠は、河川改修によりこの場所に集められ、現在に至っている。久米町教育委員会

(2011年4月10日、中須賀船着場の看板より)

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