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取材記事内をタグ「高野山真言宗 美作八十八ヶ所霊場」で検索した結果,59件の記事が見つかりました。

佛頂山 圓明寺(美作市)

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佛頂山 圓明寺
 当山は昔、現在の美作市古町の八幡に在り、八幡山圓明寺と称していました。慶応3年(1867)7月24日火災に遭い、堂宇はもとより、本尊、寺宝、什器の大部分を焼失。明治13年(1880)、当時の住職庵智照上人により、現在の地に移転しました。
 現在の地には、華山院入覺法皇が創立した、佛頂山慈眼寺が在りました。兵火により焼失し、元禄14年(1701)生駒の宝山寺より来られた深龍大和尚により、佛頂山光明庵を建立されました。
 明治13年に慈眼寺と圓明寺を合併し、慈眼寺の堂宇をそのまま使用し、山号は慈眼寺の佛頂山、寺号は圓明寺をとり、佛頂山圓明寺と改称しました。これが現在の寺です。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)

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寶壽山浄光院 觀音寺(美咲町)

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 当山は、高貴山相傅寺第九世圓教僧都が、寛仁4年(1020)に、隠居寺として岡之坊遍照院を建立したのが始まりです。
 文安元年(1444)、兵火のため相傅寺焼失の際に、本尊であった六観音のうち、焼失を免れた十一面観世音菩薩を遷(うつ)して、法雲山観音寺と寺号を改めました。初代は宥快僧正です。
 庚正2年(1456)8月19日、第三世密厳上人が遷化した夜に失火により焼失しました。当時は、戦国時代でなかなか再建できずに廃寺となろうとしていたのを、明応9年(1500)に地頭職であった浦上左馬之助行重が、京都より俊玄増正を招き再建立しました。
 その後も、再三にわたって兵火や失火により焼失しましたが、嘉永6年(1853)に、中興第一世戒光法師が再建し、山号を寶壽山と改めました。
 再建立の年が、庚申の年に縁あるをもって、庚申(青面金剛)を勧請して鎮守としています。
 平成16年、現在の本堂と檀徒会館を建立し、平成19年に五大明王堂の新建立、鎮守堂の移転や境内整備を行い、今日に至っています。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月20日撮影)

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金龍山 江原寺(美咲町)

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金龍山 江原寺(こうげんじ)
 当山は、応永年間頃(1394~1415)の創建にかかり、「徳蔵坊」と号する修験寺でした。
 慶長3年(1598)、領主・江原兵庫祐親次が、慶長の役で朝鮮出兵の折、釜山浦で病死したため、家臣がその遺命を受け、遺骸を持ち帰り、当坊に葬りました。同時に当坊の相応の荘厳を図って「江原寺」と改称し、江原氏の菩提寺としました。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月2日撮影)

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清瀧山 善性院 榮徳寺(美作市)

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第四番 清瀧山 善性院 榮徳寺
 当山は、天平年間の八世紀半ば、行基菩薩による開山です。
 行基は、元境内近くにある清流に心を引かれ、瀧の側に草庵を結びました。行基草庵の仏堂と弘法大師創建と合わせて、清瀧山榮徳寺と号されました。その後、火災により二回境内を変更しました。
 また、境内に隣接する清瀧に沿って険しい七曲りを登ると奥の院観音堂がありました。十一面観音菩薩は行基の作と伝えられていますが、昭和五十八年に、その観音堂も現本堂山側に移転されました。(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年9月19日撮影)

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壇上山 清浄院 神宮寺(美作市)

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 当山は天平7年(735)の秋、行基菩薩が梶並の地を巡錫した時、梶並神社の境内が誠に美しく、清らかな霊地であることに深く感銘し、この境内に薬師堂を建立し、別に一寺を建て、これを神宮寺と名付けたと伝えられています。
 当時は仏教の興隆が盛んで、神仏同体説が唱えられました。大日如来は天照大神、阿弥陀如来は八幡神の如く、神を権現菩薩と唱え、僧侶は別当職として神事に参加し、神社の実権を分担し法業として神前に読経する風習が行われていました。
 享保元年(1716)、幕府の宗門改革により、薬師堂は磯神社と改め、神宮寺は大日庵という山伏寺のあった現在の地に移しました。
 また、津山城主・森忠政が当山の清浄なるに感じ、香水山と名付けたと、作州誌に書かれています。
 近年は、檀信徒の協力のもと石垣改修、客殿新築等、境内の整備に努めております。
 また境内のしだれ桜は見事で、遠くからも多くの観光客が訪れています。
(文:『高野山真言宗美作霊場めぐり』より)(2021年10月9日撮影)

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天竺山 圓明院 興禅寺(美咲町)

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天竺山 圓明院 興禅寺
 当山は、遠い昔天竺の国の摩訶迦羅神(大黒天)がしばし天竺山に留まられたことから、天竺山一帯を寺域として貞観三年(861)開山されました。
 開山後は、元暦元年(1184)に、近江の人で錦織天丞勝重と名乗る武人が、西国における合戦に赴く際に、興禅寺に詣で堂宇を寄進しました。 
 元亀三年(1572)嵯峨山城落城の時に兵火より、天竺山中にあった興禅寺が消失したため、光禅庵跡の現在地に本坊を移されました。
興禅寺文化財
・仁王門と山高龍雲作金剛力士像    ・安篋印塔(南北朝時代)
・広瀬台山(酔翁亨図)        ・不動明王、毘沙門天、普賢菩薩・光後玉江の記録文書
 興禅寺住職であった戒般和尚に弟子入りし、仏門に入ると共に、江戸末期から明治にかけて地域医療につくされた女医です。当山には、光後玉江さんの診療の記録(患者届書控)や、西洋医学古文書の写し(ワートル薬性論等)等を保管しています。(文:『高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場』より)

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園密山 泰山寺(久米南町)

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 当山は、天平勝宝6年(754)に創建されたお寺で、鑑真和上の開基です。かつての本尊は行基菩薩作の正観世音菩薩と伝えられております。現在地には昭和33年に移って参りましたが、元は久米南町泰山寺というところに伽藍が配備されていました。
 現在、新旧のご本尊を初め、仁王像などの仏像修復が進んでおります。(平成27年完成予定)。かつてのご本尊様からは、創建当時の温もりが、また現在のご本尊様不空羂索観世音菩薩からは、まるで息づいているかのようなお姿が感じられます。
 密教寺院でありながら、地獄の王たちとして知られる、十王様のお姿がお祀りされています。例えば閻魔大王や脱衣婆など、「あの世」のイメージとしてよく知られた尊像が、完全な形で拝めます。
 また、本堂向かって右側には、位牌堂を兼ねた大師堂があります。

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福田山 善福寺(真庭市)

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 当山は、現在の福田の地に仙厳上人という僧が庵を結び、時の領主から寺領の寄進を受けたことに始まります。「(福田村の地名の起源)と伝えられていますが、年代は不明です。」ただし、元禄2年(1689)の記録では、すでに日名村の現在地にあることが書かれているので、開山はかなり古いものと思われます。
 本尊十一面観世音菩薩は、平家物語藤戸合戦の中にみえる佐々木盛綱の守護仏で、観音の霊験によって勝利をえた盛綱が、備前国児島に藤戸寺を建てて、この観音を祀ったといわれています。しかし、江戸時代の初めになり、領主池田候の廃仏に遭い、快仟法印は法難を避け、本尊を奉じて、この寺に入ったと伝えられています。
 なお、人々から子授け安産、ぽっくり観音として古くから信仰されており、また、母乳の出を願う女性、元気で長生きしぽっくりあの世に逝きたいお年寄りが、遠くからも参詣して来られます。(文:『高野山真言宗 美作霊場めぐり』より)(写真:2021年6月19日撮影)

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醫王山 感神院(真庭市)

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 感神院は木山寺の塔頭につき、縁起は木山寺と同様です。
感神院(木山寺大師堂)は享保2年(1717)に建立され、昭和30年までは木山寺本堂として使用されていました。本尊・弘法大師尊像は、日輪大師と称され、数珠の代わりに塔を持たれ、蓮台に座し、光背は光明真言の日輪になっています。また、お龕(ずし)には高野四社明神が画かれています。
 福引会陽:会陽は2月の第3日曜日に厳修され陰陽2本の御宝木(ごしんぎ)が福引で授与され、また参加者全員に御福銭が授与されます。その他、境内では柴燈大護摩供が厳修され、無病息災の火渡り、古いお札等のお焚き上げが行われます。(文:『高野山真言宗 美作霊場めぐり』より抜粋)

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瑠璃山地蔵院 等輪寺(真庭市)

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 当山は、古くは岡本山地蔵院と称して上市瀬字古寺にあり、その時代は明らかではありませんが、現在地に移転し、等輪寺と改称したと伝わっています。
 岡本山地蔵院には塔頭の名を遺す地名があり、また、字古寺には石地蔵を祀っていて、これを「古寺の石地蔵」といいます。
 天正年間の初期、宮山城の客将が備中より来て、地蔵院の後方の山上に陣を築きましたが、眼下に寺が在るのを見て忌み、弘治2年(1556)に寺を現在地に移転して建立したそうです。
 現在の本堂は、明治初年に檀信徒の力によって建立され、客殿・山門はその後に建立されたと伝えられています。現在は鐘楼堂はありませんが、昭和17年太平洋戦争中に、供出したという歴史があります。
 現在は、第34番木山寺が兼務をしており、問い合わせ・連絡などは木山寺にお願い致します。(文:『高野山真言宗 美作霊場巡り』より抜粋)(2021年6月19日撮影)

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