院の庄【津山市院庄地域】

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▲院の庄地図(2011.4.16)。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 院庄の地は美作の略(ほぼ)中央にあたり、西から東に吉井川が流れ土地は平坦で水陸交通の便に恵まれ上古より美作の中心として栄えて来た所である。
 崇神天皇の御宇(316-391)諸国に神戸(じんご)を定め給うや吉備の神戸は苫西郡神戸郷に置かれたと、古書にあるから、それが立地条件から見て院庄の地であることは容易に諾ける。神戸とは諸国総鎮守の祭典、修理の用に充てるための領地で、美作一宮即ち中山神社、美作二宮即ち高野神社の神領になる訳である。
また、大化の改新の昔、院庄平野条理(現在の農地基盤整備)が行われていることから推しても、古くから肥沃な耕地が開けていたことが伺われる。下って王朝時代後鳥羽院の荘園となり、ここから院の荘(庄)の名が生まれたことは広く世に知られているところである。
 次いで源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めるに当たって諸国に守護職を置き地方の統治を行ったが美作守護職の館は院庄に置かれており、今の作楽神社境内がその遺跡を留めている。
元弘2年、後醍醐天皇は北条高時のために捕えられて隠岐に遷(うつ)されたが、その途中院庄の守護職館に3泊4日御逗留(とうりゅう)になったと伝えられている。その時備前の国の住人児島高徳が、ひそかに行在所に忍び入り桜を削って有名な「天勾践ヲ空シウスル莫レ時二范蠡無キニシモ非ズ」の十字の詩を書き記し、聖慮を慰め奉ったことは余りにも有名である。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しに してはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。

天皇御駐輦中の御製に次の二首がある。
あはれとはなれも見るらむわが民を
   思ふこころは今もかはらず

よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
   民のかまどをかくて見むとは

 頼朝は初代美作守護職に梶原景時を任命したが、景時は頼朝の寵を恃んで、しばしば諸将の讒言をしたので頼朝の没後頼家の代になり鎌倉の66将士連書をもって、その罪状をあげ頼家に迫った。そこで頼家は景時を鎌倉から追放したが景時は京都に逃れようとして駿河の清見関を過ぎた時、土豪芦原六郎の襲撃を受け、その子景季とともに討たれている。頼家はその領邑を没収し後任に和田義盛を任命している。
建保元年(1213)義盛等は北条義時の専横を憤り兵を挙げて伐たんとしたが却って誅せられた。以後山名、赤松氏が交互に守護につき戦国時代まで続いたということである。
戦国時代になると山名、赤松、尼子、毛利、宇喜多等の諸豪が院庄城(構城)を拠点に勝敗を繰返し戦乱の止むことがなかったという。

 慶長8年、森忠政が信州川中島から入封し構城を修築して居城を定めようとしたが種々事情があって津山に築城した。これより美作の中心は津山に移り今日に至ったのである。
忠政が構城の修築を断念したことについて次の理由が伝えられている。
この地一帯は平坦で東南に嵯峨山、東北に局笠山などの高地があり、城の周囲は低湿で、昔から吉井川氾濫の度に水害を被ったようである。土地が平坦で交通の便が良いことは政治の中心としては最適であるが、今戦乱は一応治まったとは言え、未だ徳川幕府の基礎も充分固まっておらず太平の世には猶曲折のあった当時としては防備の点で難があったようである。また院庄築城にまつわる井戸、名護屋の惨事(睨合の松に詳記)も忠政をして津山築城に踏み切らせた一因ではあるまいか。
また一説に、
 弘仁2年9月(810)勅して諸国の神戸の農民は公役を免除し祠宇を修理せしめた。当時神戸の郷と称されたのは現在の二宮山西、戸島、神戸、院庄、鏡野町布原、古川の全部であったらしく、西に久米寺、東に宇那堤ヶ森があり、中州賀附近の吉井川原では砂鉄が採取されて、構城跡には、古がまと称する「たたら」があり、製鉄が行われていたという。また初代守護職の梶原景時は最初真島郡草加部(真庭郡久世町草加部)に屋形を造り住んだが後、院庄に屋形を移したといわれている。くるま.jpg

(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)