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五穀寺(旧勝北町大吉)


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五穀寺(大吉) 2012.9.2
 日本原高原を見渡せる高台にある五穀寺は、山号を作本山、院号を豊饒院とする真言宗東寺派の寺院です。
本尊は阿弥陀如来。寺伝によると応永年間(1394~1428)高野山宝性院宥快上人の開基と伝えられます。本寺の住職であった大僧正岩原諦信師(1883~1965)は、高野山大学の講師をつとめたこともあり、わが国の声明(仏教音楽)の権威として知られています。国語学者の金田一春彦氏が寺を訪れ、師の教えを受けました。(神社と寺院より)
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廣戸神社(大吉字平野)

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廣戸神社(大吉字平野) 2012.9.2取材
 「美作神社資料」によれば、宝亀元年(770)、山城国(京都府)男山八幡宮(石清水八幡宮)を廣戸村奥津川字宮谷に勧請し、廣戸八幡宮と唱えました。その後、文治5年(1189)に廣戸村大吉字宮の奈留に社殿を移し、応永5年(1398)大吉字平野に遷座しました。
 祭神は品陀和気命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・大山祇命・武内宿禰・須勢理比売命・志那津比古命・志那津比売命の7柱の神です。境を接して建てられた廣戸神社と五穀寺の境内は、奈良時代から始まる神仏習合(混淆)の姿をとどめています。
(神社と寺院より)※神社よりいただいた沿革は最後に載せてあります。
祭神:品陀和気命 大山祇命 息長帯命
    武内宿禰 須勢理比賣命 支那津比古命
    支那斗辧命 (大雀命)風神社...
※廣戸神社の宮司さん曰く、風神社は今は自衛隊の基地で着弾場になっているそうです。鳥居の1本が残っているとか。

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福井 庶民に根づいた修験道信仰役行者の碑

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 福井八幡宮の参道入り口の道に面して、高さ1mに近い修験道信仰を物語る古びた石碑がある。修験道とは、山岳信仰を通して山の霊気にふれ、山の行場で心身を鍛え、呪術力を体得して、病気を平癒し禍(わざわい)を除くより現世的御利益を追及する信仰である。
 この道を修める修験者は、いわゆる山伏(やまぶし)と言われ、白装束で金剛杖をつき法螺貝(ほらがい)を吹いて、山野をかけめぐった。彼らは概して情報に明るく薬草などにも博学であったため、民衆に受け入れられ、村民のリーダー的存在として活躍した。
 石碑は、判読が難しくなっているが、次のように刻まれている。
     明治六年癸酉   福井村
(梵字) 大峰役行者大菩薩
     九月九日      講 中
 これは、大和大峰山で修行し悟りを開いた、役行者(えんのぎょうじゃ)をたたえたものである。広く修験者に崇拝されている役行者とは、修験道の開祖の人物である。
2012年6月28日取材(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)

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2012年8月のイナバ化粧品店の様子

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2012年8月14日(火)のイナバ化粧品店の店内の様子です。この日はお盆ですがイナバ化粧品店内は通常より大勢のお客様とちびっ子達も両親に連れられて来店の様子で賑やかです。イナバママも子供達と握手して楽しそうです。
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福井 薬師院猿の湯伝承の薬師様

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 福井八幡様の南側の麓から、勝央町にぬける道(工門勝央線)が通っている。その道に入ってなだらかな登り坂を数百mも行かないうちに、いわゆる火のかま古墳がある。その古墳から道路をへだてた東側の丘に、粗末な方1m余で背丈ほどの高さのお堂がある。なお、このすぐ近くには、広野小の初代校長松本譲先生のお墓もある。
 このお堂に、古くて塗りのはげた高さ30~40cmの仏様=お薬師様が安置されている。さらにその横には、年月を経て朽ち果て虫食い状態で頭と胴だけの、おそらくはその先代の仏様が並びおかれている。
 この薬師様は、火のかま古墳の下の谷筋より現在地に移されてはいるが、平安末期、新宮城の栄えていた当時、温泉の湧き出た薬師院の湯ゆかりの伝承をもつ仏様である。新宮山木下伝記によると、およそ次のような記述がある。
 新宮城主二代道衡(みちひら)の時、康平元年(1058年)この丘陵のすそ谷筋で薬師院というお堂を開いていた海常坊が、読経のさなか庭で湯浴みの音がするので、のぞいて見ると、大きな老猿が泉水に入っていた。驚いたことには、湯気が立ち昇っていて水が温かくなっており、泉水に湯が湧き出ていることを知った。海常坊は、直ちに城主に願い出、薬師院猿の湯という湯治場(とうじば)を設けることにした。やがて、傷も癒え、難病も平癒する薬湯のうわさが広まり、近郷近在から沢山の人々が入浴するようになって、大変な繁盛を迎えた。この結果、多くの湯銭かわりの賽銭賽米が貯えられることになった。その貯えは、海常坊(みたちぼう)の願いでにより、福井正伝寺に五重塔建立の資金となったと言われている。猿の湯は、その後74年間も続いて湧き出ていたが、長承元年(1132年)4月、他国の武士と浪人者が湯船で喧嘩・殺傷事件を起こしたため、湯の入れ替えを試みたところ、これを機として湯は出なくなり、温泉が途絶えたそうである。
(文:広野の歴史散歩:宮澤靖彦 編著より)2012年6月28日取材

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小田中の聖徳寺の「和霊祭」にお邪魔しました。

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聖徳寺(岡山県津山市小田中1416)の和霊祭がありました。(2012年7月30日(月)午後5:00~)
  和霊大明神の功徳と由来
 当寺の鎮守、和霊大明神は厄除け の神として、また願い事は必ずかなえてくれると 言う津山地方で名高い神様で、祭神は山家清兵衛公頼公(やんべ せいべいきよ もりこう)といい、四国は 伊予の宇和 島藩の家老で、仙台藩主・伊達政宗の子、秀 宗に仕えた人。公は藩主を助け藩政上に手腕をふるい、大いに治績と名声あげま したが、その反面これを怨みに 思う者が出てきて、謀略にあい殺された。時に元  和6年夏清兵衛25歳でありました。 この時、公は死ぬ間際に、「われに救いを求め る者には、われ必ず、その願いを聞かん」と言い残して、息を引き取ったという。
その後藩主が山頼和霊神社として、公を祭神としてお祭りするにいたった。聖徳寺は この山家清兵衛公頼公を祭神とする和霊神社の分神を当寺の鎮守として祭っています。
  毎年7月30日は縁日として、夜7時より和霊まつりをおこない、夏の夜に堂内で大般若転読法要また境内にて柴灯大護摩の祈願法要を行ないました。(情報提供:聖徳寺

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県指定史跡 久米廃寺(くめはいじ)跡

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県指定史跡 久米廃寺 津山市宮尾(2012年7月3日・25日取材)
 この地には「唐臼」呼ばれる古代寺院の塔の心礎があり、小字名も「唐臼」と称されていました。
 この寺院跡は、この地方が古代の美作国久米郡久米郷に属していたことなどから、久米廃寺と呼ばれていましたが、中国縦貫自動車道(当時)建設工事に伴って実施された発掘調査(昭和44~46年)により、説明板にある復元想像図のような寺院のあったことが明らかになりました。このため日本道路公団と協議して高架橋に設計変更して遺跡が保存されました。
 この久米廃寺は、今から約1,300年前(白鳳時代)に創建された寺院ですが、火災にあい、平安時代の前半には廃寺となってしまったようです。最盛期の寺域は東西130メートル、南北110メートルの規模で主要な建物である金堂・塔・講堂が、回廊または築地塀の中に東西に並列して立てられ、東側の一段低い谷の部分に雑房(寺院関係者の生活場所)がありました。この場所に接して東方に「宮尾遺跡」があり、掘立柱建物など22棟が発掘されました。これは白鳳時代から奈良時代に存在した「久米郡衙(くめぐんが)」の跡と考えられています。
 当時の郡衙の役人(郡司)には地方豪族が任命されることが多く、彼らは権威の象徴として、寺院を造営し、民衆に誇示しました。久米廃寺の建立にも、こうした背景がうかがわれ、初期仏教文化の地方における受容の姿を知るうえで、この久米廃寺は貴重な遺跡といえます。昭和52年04月08日県指定史跡
主な出土品/仏像(塑像仏・塼仏)・青銅製相輪、蓮華文軒丸瓦その他多数
平成2年3月岡山県教育委員会(文:案内板ほか)

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上賀茂神社(津山市原字荒神)

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 勝加茂原字荒神にある。祭神は火産霊神・素戔鳴命・味鉏高彦根命・下照姫命をまつる。原村往古より勝加茂西上(現上村)鎮座の若王子権現を産土神としたが、明治十年その氏子を離れてもともと荒神社のあった地に社殿を建立し、旧来の荒神社の祭神に西賀茂神社及び朝吉神社の分霊を勧請合祀して、上賀茂神社と号した。(歴史めぐり資料より)2012年7月8日取材

「美作神社資料」には、「和銅元年鎮座、大永五年山名太郎左衛門常清の社殿再興、正保七年以来氏子よりその費用を献進する」とありますが、その拠るところが明確ではありません。「勝北町誌」より

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曹洞宗 清涼山 正覚寺

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曹洞宗 清涼山 正覚寺 (2012年6月24日取材)
縁起
 当院は曹洞宗太源派に属する寺で、作陽誌には次の通りに記述されている。
 本尊千手観音 鎮守春日大明神 本寺夢中山幻住寺 境内東西百七十間南北六十五間となっている。本尊は千手観音となっているけれども現在の本尊は釈迦三尊であり、鎮守は白山大権現である。
 久米郡旭町大字北にある夢中幻住寺第二代の住職大庵洞益(1434~1461永享6年より寛正二年まで二十八年間住職)は長禄二(1458)年、今の大字宮部下、久保神社の西隣に地に小さな寺を建て、「普門寺」と称した。しかし此の寺は未だ本山からも認められておらず従って寺格もない平僧地であった。
 夢中幻住寺は永禄年中に失火、永禄九(1566)年より天正十九(1591)年まで二十六年間無住、其の後天正十九年に法山存悦が幻住寺に入った。
此の人は元和五(1691)年迄二十九年間住職として幻住寺の復興に尽して功績のあった人である。此の法山存悦が幻住寺復興に尽した経験と才幹をもって宮部地方の人々に説き、喜捨を集めて、寺地を宮部上村の王子に定め、前記の普門寺をここに移して寺院を建設したのである。
であるから此の寺の開基も開山も実際には法山存悦であるけれども、普門寺の開山である幻住寺第二代の住職大庵洞益を迎えて勧請開山に据えたのである。
時代はわからないが法山存悦の幻住寺10色在任中の天正十九年から元和五年に至る二十九ヶ年の間と推定する外ないのであって、かいざんは実際よりも百二・三十年も前に遡って長禄二(1458)年の普門寺の開山そのものが此の寺の開山とされたわけである。
 作陽誌(西作誌)は元禄二(1689)年から元禄六(1693)年までかかって森藩の編纂した地誌であってこの頃ではすでに山号(清涼山)も寺号(正覚寺)もあり、本尊は千手観音、鎮守は春日大権現で夢中山幻住寺を本寺とするちゃんとした寺院に成長していたのである。(全文:『 久米町史』より)
曹洞宗 清涼山 正覚寺 本尊 千手観音 (津山市宮部上1663)

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