森原神社(坪井上)
森原神社(安清)
明治41年に鶴坂神社に合祀されているが、現在も毎年甘酒祭などをしている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
森原神社(安清)
明治41年に鶴坂神社に合祀されているが、現在も毎年甘酒祭などをしている。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
福山家 福山元太郎 久米北上郡里公文中村 浜田藩(鶴田藩)
大庄屋まで
福山家の出自は明らかでない。享保2年(1717)高津神社の棟札に庄屋福山彦兵衛、天明5年(1785)中庄屋彦兵衛、寛政2年(1790)彦兵衛、文化4年(1807)中庄屋周蔵の名があり、中庄屋、庄屋を勤めていたことがわかる。天保7年(1836)久米北条郡17か村が石見国浜田藩の飛地になったとき、福山元太郎が和田北村の富田伊兵衛とともに大庄屋に任命された。
大庄屋として
第2次長州戦争で敗れ、城をすてた浜田藩は、慶応3年(1867)藩主が福山家に移り、鶴田藩と藩名を改めた。明治4年に桑下に西御殿ができるまで福山家は藩主の邸宅であった。
久米苫田八十八ヵ所霊場八十一番札所
石灯籠、三輪の塔、地神様がある。阿弥陀如来安清の堂があったが、今はない。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)久米北条郡坪井下村
大庄屋まで
安藤氏は、周防の大内義隆の家臣であった。義隆が陶晴賢によって滅ばされた後、天正元年(1573)香々美庄、のち河本村(鏡野町)に移住し、寛文3年(1663)子孫の太郎兵衛が坪井村に帰農したという。家譜によると天明年間、善右兵衛の祖父勘兵衛が挙母藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
善右兵衛(善一)は、天保8年(1837)挙母藩の事務総掛を務めた後、大庄屋職を勤めている。慶応2年(1866)改政一揆のとき、津山に向う百姓に食物を与え説得して帰村させた。兄の鹿左衛門は救済などに献金し武士にとりたてられている。
美作国挙母藩領
元禄15年(1702)内藤領(安中のち挙母=豊田市)となった久米北条郡内の12か村5千石余が、明治4年(1871)まで、169年間にわたって内藤家の領地であった。これを統括する陣屋は坪井下村におかれた。
八十三番札所明谷の堂(明谷)久米苫田八十八ヵ所霊場 本尊は地蔵菩薩。
左側が 八十三番札所明谷の堂です。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
関様・牛神様(明谷)
関様は美保神社(恵比寿様)の福の神、田の虫よけの神、牛神様は家畜の守り神。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
原の供養碑・札場跡(原)
原の出雲街道旧道にあり、「間務阿弥陀仏三十一カ遍供養塔」と「天保三年吉祥日坪井上村中組構中」と刻まれている。札場跡は江戸時代に藩の奉行所から村人に知らせる場所があった所。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
山根の長者屋敷跡と貞清五輪の墓(山根)
天文の頃、貞清四郎左衛門が山根市場に居住しており、山根の長者と呼ばれていた。今も屋敷跡に古井戸がある。この屋敷跡の東の国道を超えた田の中に五輪塔がある。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
坪井上立野の谷にあり黄銅鉱を産出。文久元年(1861)の頃採掘を始めた。明治30年頃から大正にかけては一時大盛況となったが、大正末に休山。昭和10年頃、昭和鉱山KKが再度始めたが終戦後銅価の暴落で閉山。すぐ後ろの山が茶臼山古墳である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
妙見宮・地神様(明谷)
妙見宮は北極星を祀った北辰妙見宮で無病息災、家内安全、五穀豊穣を司る神。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)