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日吉神社(宮部上)

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日吉神社 大字宮部上
 此の社の由緒は拝殿の額によると、祭神は大山紙神で、嘉吉年間、山名教清が岩屋城を築くに当たり、その部将を派して此の地に城塞を築き、近江の国坂本から山王権現の分霊を勧請して守護神としたのが此の宮の起元である。その後兵乱により城塞は失われ此の神社のみが山上に残っていたものを、江戸中期に至って此の地方の人が之を山麓に移し、本社にならい「日吉神社」と改めて今日に至ったものである。本社は元、官幣大社日吉大社で、全国3796の分霊社の一つであるというのである。

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「モビルスーツ特別搭乗会」が開催されました。

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2015年8月15日(土)・16日(日)9:30〜15:30に道の駅「久米の里」で 「モビルスーツ特別搭乗会」が開催されました。今回は晴れの国おかやまデスティネーションキャンペーン開催を記念して、両日とも120組を限定して特別に実施されたそうです。

 炎天下でも子どもたちは元気いっぱい!でしたが、ご父兄の方々も興味津々で写真を撮られてご満悦そうでした。夏休みの思い出ができて良かったですね。

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国指定史跡 三成(さんなり)古墳(大字中北下)旧久米町

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三成古墳の復元整備について
 三成古墳は、昭和53年に行われた発掘調査によって、美作地方の古墳としては、例がすくなく貴重なものであることがわかりました。このことから昭和54年10月、国の史跡指定を受け、史跡内用地を買収し、国および県の補助により57年度に復元整備を行いました。
復元計測によって得られた数値をもとに墳丘を復元し、地中より発見された石棺は埋め戻して、地上に同じ材質の模型をつくりました。また、あわせて説明板や標柱、歩道などを設置し見学の便宜をはかっています。

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寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町

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 寺院の縁起と開山
 真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
 伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
 その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
 中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。

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坪井山 称念寺(大字坪井下)旧久米町

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 本寺は九品山来迎寺となっているけれ共、現在は京都の知恩院の直末である。
 元、此の寺は此の地の大庄屋福本小左衛門が自分の所有地のうち、現在称念寺のある位置に独力で小庵を建立した。時は慶長7(1602)年で、坪称庵と称した。其の後荒廃し寛永3(1626)年、福本小左衛門は独力でこの坪称庵を再建した。それから少時たった寛永9(1633)年10月22日、石州浜田生まれの道誉雲西という道心者が此の坪称庵に入って住職的な役割りをすることとなった。道誉雲西は正式な僧侶ではなく、俗人であり乍ら仏道修行に熱中した人であるが、これをもって開山と見ることもできる。

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梅の里公園近くのアジサイの花(神代)

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神代(こおじろう)の梅の里公園すぐ近くに植えてあるアジサイの花が可愛い!
梅の里公園を旭町の方へ向かって行くとすぐに道端の両脇に可愛ピンク色の紫陽花が咲いております。毎年、アジサイの花が咲くころにはこの道を思わず通ってしまいます。丹精込められた色とりどりの紫陽花(アジサイ)の花が通られる人を癒してくれます。(取材2015年6月28日)

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青長山 大法寺(大字久米川南)

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 当山は慶長の昔、伯耆大山の人、理性が仏道修行のため諸國行脚の途次、此の地を通り一小堂で休憩した。此の堂は現在大法寺のある場所にあったもので、本尊は弘法大師であった。理性は何心なく堂内を見まわすに、兵乱の影響を受けて、本来仏法弘道の霊場であるはずのものが時には野武士の棲み家ともなってひどく荒らされていた。理性は此の有様を見て大いになげき、是非共之を再興しなければならぬと固く心に誓い、村の人達に相談をもちかけ、自分も此の地に仮住居して滞在することとした。
 最初の程は半信半疑であった土地の人達も道心堅固な理性に敬服して段々と協力者がふえて遂に一宇の寺院を建立するに到った。即ち慶長19(1614)年、時の美作國の領主森忠政の允許を得て「静長山大宝寺」と号し真言宗に属した。

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大倭村 村社 八幡神社(津山市南方中)

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由緒沿革 創立年代は詳かでない初の折居神社又は折居八幡宮と稱へて居た。
寛平四子年再建したが慶安4年11月火災のため神器奮記全く焼失して傳ふるものがない後寛文元年假宮を建て元禄二巳年9月10日と正徳3年8月と天文2年5月との三回に建立又は修繕して今日に至った。
明治12年9月22日村社に列し大正4年10月村内無挌社八坂神社及稲荷神社を合祀した。
社殿 本殿梁行4尺 桁行4尺5寸(元文2年建設)、拝殿梁行2間半 桁行3間 幣殿、神庫(以上明治11年建設) (文:『久米郡誌』より) 2014年3月29日取材

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宇多山 圓光寺(久米川南)旧久米町

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 当山は天台宗二祖慈覚大師の創建による。
 今からおよそ1150年の昔、開祖された円光寺は、当時その他に大日堂、薬師堂、西光寺、因果寺、宝林寺等の多くの諸堂があった。しかし、天文、永禄(1559年)の頃から次第にすたれはじめ、元禄2年(1689年)には、現在の円光寺だけとなった。
 仁和3年(887)~寛平9年(897)代に精舎の創建を見るに至ったと伝えられている。当時は、宇多天皇の宇多をとって宇多寺と呼んだ。(2014年3月29日)

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八幡宮(宮尾)旧久米町 

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八幡神社(宮尾) 大字宮尾
 古老の伝える口癖によると、往古一郡の総鎮守として豊前の宇佐八幡の分霊を勧請したもので、其の際、定平家の先祖が御神体を奉持して帰り、其の後長年の間定平家が神事を掌どっていたが天文の頃(1532~1555、室町時代の後期)神職を他家にゆずり、定平家は秋の例祭に行われる宇佐八幡宮の神事にならった流鏑馬だけを勤めることとなった。
八幡様は武の神様であるので馬術と弓術を組み合わせた流鏑馬が神事として取り上げられたことは尤もなことである。然し乍ら神事としての流鏑馬は年を経るにつれて段々と象徴的となり、服装も羽織袴となり乗馬と共に神輿の前を歩くだけのこととなっていた。

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