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堂明様(堀坂地区)

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堂明様
 中土居にある堂明様は毎年4月3日を中心に土居でお祭りをしている八幡道地蔵(通称:堂明様)であり、寛文11年(1671年)新野上分字今宮から現在地に移したものです。この地蔵菩薩様は当時村落でよくないことが次々と起き、こうした悪事をおさめるため、お祀りされていると言い伝えられており、この時期は西法寺が堀坂へ引遷してきた同じ頃です。
 お地蔵様は広大無辺な宇宙を浄化する無限の徳相で、無信心の人でも罪多き人でも、一心にお地蔵さんに念じればその罪を浄化し、病苦も災難も全て救済してくださると伝えられています。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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瀧尾山 西法寺

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瀧尾山 西法寺(2011.7.10取材)
 この寺は天台宗(伝教大師・最澄)瀧尾山西法寺といい、天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺です。昔は妙原の大谷山にありましたが、山津波にあって寺が壊れたため、寛文11年(1671年)に堀坂へ移したもので、ご本尊は不動明王です。
 お不動さんは右手に剣を左手に綱を持ち、左目を閉じ口を斜めに噛みしめ、しかめた顔をして体の色は青黒く、火炎を背中に負って険しい岩場に立っています。
 大日如来の命令を受けて、人の心に住む悪魔を退治するといわれています。恐ろしい姿でですが、本当は心のさしい仏様で、心がよくない方向に向かっていると正しい方向へ戻してくださるといわれています。
 この本堂は文政8年(1825年)に建てられたもので、本堂が無事に完成することを願って参道口に六体地蔵が寄付建立されました。また平成14年4月に内仏殿と庫裏を改築し内仏殿には阿弥陀如来を中心に、伝教大師最澄、檀信徒のご先祖を祀っています。
 この寺は、加茂郷88ヶ所霊場第54番札所です。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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本谷山 神宮寺(観音様)

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本谷山 神宮寺(観音様)御堂(2011.7月9日、7月17日取材)
 神宮寺(観音様)は元禄7年(1694年)掘坂と妙原の人々の浄財により建てられた十一面観世音菩薩が祀ってあります。今でも毎年7月16日の夕方から18日の夕方まで、人々が替わり合って昼夜鉦(かね)をたたき念仏を唱え、いろいろな災難や病気に罹らないように、一心に祈る習慣が続いています。
 御堂の正面の壁(漆喰)には、鏝絵(こてえ)と言われる珍しい絵が鏝で描かれています。また御堂のなかには百万遍の念仏を唱えるのに使った数珠があります。
 観音様を“南無観世音菩薩”と唱えると、火難、賊難、雷難、蝮難、薬難、病難、不慮の事故などからのがれると、お釈迦様が説かれた観音経の中にあります。
  十一面観世音菩薩は頭の前に三つの優しい顔、左に三つの怒った顔、右に牙を出してほめている顔三つ、そして真後ろは大笑いしている顔一つ、正面を向いている顔一つ、これは同行二人を表しており、観音様の顔を入れて十二の顔となっています。
 ここは、加茂郷88ヶ所霊場第53番札所でもあります。(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

 

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堀坂神社

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▲堀坂神社(2011.7.9取材)
 堀坂神社は老松山1047番地の山林の中に厳粛に建っています。神社の創立は承安3年(1173年)の頃、社号は天満大自在天神宮(天満宮)で、一般的には天神様をお祀りしているといわれています。ご祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)学問の神様菅原道真公の先祖神と、大国主命(おおくにぬしのみこと)縁結びの神を祀っています。社殿は本殿、弊殿(へいでん)、拝殿、社務所、神楽殿、神輿庫で神輿は2基です。社殿も再々火災にあいましたが、今の本殿は宝暦2年(1752年)堀坂村領主、常陸国土屋藩(茨城県土浦市)土屋能登守篤直が再建したものです。昭和57年に拝殿を中心に改築し、同時に神楽殿の屋根及び神輿庫も改修しました。 
 境内には荒神社、若宮神社、愛宕神社、松稲荷神社、祖霊社、外2社があります。
 歳旦祭 1月1日 祈念祭(春祭り) 3月25日 夏祓祭(夏祭り) 7月24日 秋例祭(秋祭り) 10月25日(近い日曜日) 新穀感謝祭 11月23日 除夜祭 12月31日(津山市堀坂町内会発行:わがまちの史跡より)

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光伯(こうはく)地蔵(西吉田)

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植月秀俊さんの奥様のお話では、光伯地蔵様の縁日には夜店がでて賑やかだったそうです。また、足が治るとの言い伝えから、足が悪い人がわらじを持ってお参りに来ていたそうです。昔はとても大きなわらじがお供えしてあったそうです。(2011年6月25日取材)

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加茂の金刀比羅神社

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▲加茂の金刀比羅宮(2011.6.25取材)

当社は中原日詰に鎮座す
 日詰山には、寛文年中、四国金刀比羅宮の分霊を奉還し安置す。明治42年、宇野原口、楢井行重、百々、中原成安、才ノ谷社を合祀し安置す。大三輪大明神、惣道天明神、大山祇社、大月大明神、日野目大明神、末社には19の命を祭り奉還す。
相殿に大物主命、速玉之男命、伊弉冉命。
・神を祭祀せば=悪い病いのたたりなくなると言う。
・神を祭祀せば=農耕、養蚕、織物を治め一番大切な祖神がある。
・神を祭祀せば=心おちつき事に当たりなしとげらるるという。末社、荒神社は安産の神、稲荷神社に商法の繁昌、木山神社山の神、末社多くの神々を安置す。広く県外からも参拝し祈願者も多い。
祭日は次の通り行う。
祈願祭 元旦~3日 豊作繁栄 4月10日 難病除 7月10日 大祭(例大祭) 10月10日 年の礼祭 12月10日
◎尚、大平内閣総理大臣が幹事長時代に神社の社碑を書き下されてあります。
◎又、山上には40年代の桧材で展望台を作ってあり、加茂郷が一望出来るようにしています。
金刀比羅神社(案内板より)

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福力荒神社

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福力荒神社(津山市福力130番地)2011年6月25日取材 ★2008年の福力荒神社大祭取材記事

祭神 素盞鳴尊
祭礼 
・天和2年 祭日9月9日 社人 横林常陸
 現在   旧正月大祭(1日・2日・3日) 春季大祭 4月20日
       夏季納涼祭 7月 秋季大祭 10月 新嘗祭・冬至祭 12月
・代表的な祭礼
・旧正月の3日間は午前10時から神事が行われ、巫女による浦安の舞、豊栄の舞も奉納されます。3ケ日には安産・蝮除け・学業成就など願う10数万人もの参拝者で賑わい、参道には200軒もの露店が立ち並びます。
・秋季大祭は、神事に続き傘鉾の行列が組まれ太鼓などを打ち鳴らしだんじり・神輿も御旅所への御巡幸があり盛大に執り行われます。
主要建造物 本殿 幣殿 拝殿 社務所 鳥居 狛犬 碑
宝物 山口彦左衛門の奉献太刀 環頭太刀(創建600年記念)
御利益 蝮除け 子授け 安産 家内安全 学業成就 交通安全 商売繁盛 良縁等

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津山市(旧勝北町)の宝篋印塔

zenmen.jpg宝篋印塔(2011.6.12)
 宝篋印陀羅尼経を安置すると、三世一切の諸仏の全身舎利を奉蔵するものと信じられて作った塔を宝篋印塔という。基礎・塔身笠・相輪の部からなり層段を刻み、四隅に飾突をもつ笠部が特有である。また塔身に四仏梵字を刻し基礎の側部に年号等を記銘しているものがある。もともと供養塔であったが後には墓塔としても用いられたようである。
 勝北町では数多く発見されているが笠部のみであったり相輪のみであったりするものが多い。ここ工門の宝篋印塔は康永2年という南北朝時代の紀年銘があり、岡山県でもすぐれたものであるといえる。「沙弥」「比久尼」の文字は判読しがたい。

勝北町教育委員会
勝北町文化財保護委員会

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院の庄【津山市院庄地域】

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▲院の庄地図(2011.4.16)。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

 院庄の地は美作の略(ほぼ)中央にあたり、西から東に吉井川が流れ土地は平坦で水陸交通の便に恵まれ上古より美作の中心として栄えて来た所である。
 崇神天皇の御宇(316-391)諸国に神戸(じんご)を定め給うや吉備の神戸は苫西郡神戸郷に置かれたと、古書にあるから、それが立地条件から見て院庄の地であることは容易に諾ける。神戸とは諸国総鎮守の祭典、修理の用に充てるための領地で、美作一宮即ち中山神社、美作二宮即ち高野神社の神領になる訳である。
また、大化の改新の昔、院庄平野条理(現在の農地基盤整備)が行われていることから推しても、古くから肥沃な耕地が開けていたことが伺われる。下って王朝時代後鳥羽院の荘園となり、ここから院の荘(庄)の名が生まれたことは広く世に知られているところである。
 次いで源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家政治を始めるに当たって諸国に守護職を置き地方の統治を行ったが美作守護職の館は院庄に置かれており、今の作楽神社境内がその遺跡を留めている。
元弘2年、後醍醐天皇は北条高時のために捕えられて隠岐に遷(うつ)されたが、その途中院庄の守護職館に3泊4日御逗留(とうりゅう)になったと伝えられている。その時備前の国の住人児島高徳が、ひそかに行在所に忍び入り桜を削って有名な「天勾践ヲ空シウスル莫レ時二范蠡無キニシモ非ズ」の十字の詩を書き記し、聖慮を慰め奉ったことは余りにも有名である。
「天莫空勾践 時非無范蠡」(「天よ、越王勾践にあたる後醍醐天皇を見殺しに してはならない。時には、越王を助けた范蠡のような忠臣、つまり、この私高徳がいるのだから」)というように解釈しているようです。

天皇御駐輦中の御製に次の二首がある。
あはれとはなれも見るらむわが民を
   思ふこころは今もかはらず

よそにのみ思ひぞやりし思ひきや
   民のかまどをかくて見むとは

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構城址【津山市院庄地区】

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構の城(2011.4.16貞考母子の碑より望む)
 津山市院庄字構にあり、一町四方が城域となっている。はじめ院庄城といったが築城の年代は明らかではない。
 正平15年(1360)、山名時氏とその子師義は兵4千5百騎を率いて赤松貞範の属城を攻めようとして、その将小池中書、福依八右衛門を篠向城(真庭郡久世町大庭)に、淀井丹波守、武田刑部左衛門を高田城(真庭郡勝山町)に向わせ、自分は精兵をもって院庄城を囲んだ。城兵は僅かに六百余りであったので、城将江見八郎兵衛景信および住井吉行、渡辺刑部少輔等は敗死して城は落ちた。村の東南に墓趾があり、この地を吉行といっている。正平17年6月(1362)、山名時氏はまた兵5千を率いて院庄に入り、近国の諸将を招いて備前備中の諸国に向かった。
 その後康正2年(1455)、城将山名掃部頭の上洛の虚に乗じて赤松氏の将中村五郎左衛門が来攻した。掃部頭の子は戦に敗れ城を棄てて伯耆に逃れた。次いで山名氏が大挙来襲し互いに勝敗があって、戦の止むことがなかったという。

元亀2年(1571)、宇喜多氏の将花房職秀が来攻して杉山為国と戦ったが為国は戦死し、職秀の将難波信明もまた戦没した。その墓趾は院庄の西方西町にある。
これより後院庄城を改めて構城とし宇喜多氏は片山秀胤にこれを与えた。天正11年(1583)6月、毛利の兵が構城を攻略したので宇喜多の将花房職之兵を率いて構城を囲み奪い返した。秀家は芦田馬之丞およびその子作内に命じてこれを守らせた。
宇喜多氏が亡んで、慶長8年森氏が入封するに及んで構城を修築しようとして1年余り院庄に留まったが事情があって中止し、今の津山に築城した。寛永15年(1638)、その城跡を壊して大部分を農地とした。
注 天正年間、作備線(現在の国鉄姫新線)の敷設工事のため土砂が掘り採られて、今は本丸跡の一部を残して農地となった。現在その一角に貞考母子の碑が建っている。(昭和54年10月23日発行:院庄誌より)

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