福井 古い伝承のある福井八幡宮

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福井 古い伝承のある福井八幡宮1(2012年2月12日取材)
 福井八幡宮は、自然の豊かな林に囲まれ、幅広い長い参道やよく整った境内、古い本殿や相応の拝殿の建物を有し、いかにも鎮守の森を思わせる神社である。しかしながら、道路から見えにくい離れた山中にあるため、地域の人以外は、その所在が知られていない。片山・桑田集落の南に広戸川が流れ、対岸に西から東へ川に沿ってなだらかな丘陵をなした山がある。その木立でおおわれている山の中腹に八幡様がある。
 四つ立橋を渡り、福井大崎線から勝間田方面に抜ける道(工門勝央線)に入ると、直ぐに参道の入口があり、尾根つたいに3~400m参道を上ると、神社境内に達する。この道が単に参道ばかりでなく、田熊方面に抜ける山道であったことを物語る道標が、入口に半ば埋もれ今も残されている。
 福井八幡宮の創設は古く、一説に平安時代、広山・田熊八幡と同様に、福井八幡宮は、清瀧寺本尊に対する南部の守護神として創設されたとも言われている。しかし、平安末期、新宮山に位置する新宮城とのかかわりのなかで、創設されたとの説が具体的で実証的である。

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 福井八幡の由緒沿革については、「本社は往昔武将木下道胤広野村大字福井の南端に屹立せる神宮山に城を築き之により付近を領有す その子孫木下道光地を城の巽位に相し八幡宮を勧請し鎮守及び祈願所とす 元暦元年(1184年)~遂に落城す 後社宇廃頽したるを以て村民氏神として奉祀造営す」とある。(大正9年「美作国神社資料」)さらに、これに関わる記述として、「新宮山木下伝記」があり、新宮城の加護のため建てられた宝昌山正伝寺ゆかりの伝承がある。
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参道入口附近にある石造
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神事場
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 それによると、正伝寺は、新宮城の城主木下道胤が長元3年(1030年)武運長久を願って、城の真東山中に建て、一時は五重の塔まで出来て大変栄えたと言う。しかし、数世代後に、源氏の梶原勢に攻められ新宮城が落城すると翌年の1185年、正伝寺も炎上し廃寺となった。
この時、本尊の観音様は危うく難を逃れたが、村人が全焼した正伝寺の後片付けをしていると、大火にも関わらず焼けずに小祀が残っており、中から八幡大菩薩 のお札が出て来た。これほどの火事でも難に会わなかったのは神の霊威と大変ありがたがった。この八幡の神は、村人も守ってくれるに違いないと話し合い、正 伝寺あとに神社を創設した。これが福井八幡宮の起原とある。
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 八幡宮の創建とその後の確かな経過は、「天和2年(1682年)火災に罹(かか)り縁起古文書焼失し今考證(こうしょう)に資するべきものなし」(「美作 国神社資料」)とあるように、判然としないが、連綿と続いてきたようである。火災後2年経過した貞享(じょうきょう)元年(1684年)には、神社再建を 裏付ける棟札(むなふだ)がある。
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江戸時代~明治・大正を通して、社殿としては、本殿・拝殿・神楽殿があり、これらの建築、改築にかかわる棟札が、元禄元年(1688)、享保15年(1730)、延享2年(1745)、安永4年(1775)、文化2年(1805)、文政4年(1821)、天保7年(1836)、安政2年(1885)、慶応2年(1866)など、計11枚が残されていて、その歴史の古さや氏子のかかわりを物語っている。
 とくに現存の本殿は、18世紀の標準的妻入一間社で新機軸な面があり、細部にわたって田熊八幡宮のそれと酷似していて、同一工匠(こうしょう)の手になる可能性もあり、「いつまでも保存したい建物」と言われている。(「津山の社寺建築」)
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 八幡宮の祭神は、もちろん譽田別命(応神天皇)であるが、相殿として、足仲彦命(たらしなかつひこのみこと)・息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)・三柱姫命(みはしらひめのみこと)・武内宿命(たけのうちのすくね)が配祀(はいし)されている。また、各神体のほか、赤銅作りの金幣2本と小太刀が祭られていたが、小太刀はいつのまにか紛失とのことである。
 社殿周辺には、多分大正7年の「雑社統合令」によって整理され合祀されたと考えられる神々が、改築されて間もない新しい社で祭られている。
荒神社=素◎鳴命(すさのおのみこと)、愛宕神社=火産霊命(ほむすびのみこと)、稲荷神社=倉稲魂命(うかのみたまのかみ)、国司神社=大国主命(おおくにぬしのみこと)、高良神社=武内宿禰(たけのうちのすくね)、現今、祭りは小字6地区の当番制で行うのを原則とし、秋祭りは11月3日に催している。(文:編著 宮澤靖彦 広野の歴史散歩より)