
旧広野村戦没兵士の慰霊塔
広野小に隣接する小村池の東南隅に当たる山麓に、市道曲がり角に面して、広野地域の慰霊塔が祀られている。
各地域に見られる忠魂碑に相当するもので、いわゆる御国のために、戦争で犠牲になった広野村当時の出征した兵士の御霊を祀っている石塔である。
この慰霊塔には、日本の近代化のなかで惹き起こした戦争のために、広野村から出征し、戦死・戦病死した兵士113柱の慰霊が納められている。戦没者の内訳は、日清戦争(1894~95年)2名、日露戦争(1904~05年)6名、満州事変(1931年~)日華事変日中戦争(1937年~)太平洋戦争(1941~45年)という15年戦争の105名である。
満州事変以降、戦場別にこの戦没者の内訳を見ると、次の通りである。
◇満州(中国東北)地区戦死者 9名 ◇レイテ島戦死者 5名
◇支那(中国)方面戦死者 12名 ◇サイパン島戦死者 3名
◇ソ連シベリア方面戦死者 9名 ◇ニューギニア戦死者 6名
◇ビルマ方面戦死者 10名 ◇ブーゲンビル戦死者 4名
◇南洋諸島方面戦死者 10名 ◇ミンダナオ島戦死者 2名
◇海上輸送船中戦死者 3名 ◇ボルネオ島戦死者 2名
◇フィリピン戦死者 24名 ◇広島原爆死 1名
◇ジャワ島戦死者 1名 ◇他 4名
(※豊岡孝次氏の調査による。)
この戦没者の地理的な分類だけから考えても、日本帝国がいかに広範な地域を戦場として戦闘を交え、多くの犠牲を払ったかをよく実証している。
この慰霊塔は、日本がようやく民主独立国家として再出発をした昭和27年(1952年)に、当時の費用で総工費22万円の内、半分は村の費用で、半分は村民の浄財で建立された。慰霊塔の柱塔周辺には、戦没者一人一人の名前が克明に刻まれていて、丁重な村の慰霊塔らしい特徴がうかがえる。
当時の「報道ひろの」によると、昭和27年秋晴れの9月23日に、盛大に神仏式で慰霊塔除幕式が行われ、小学校児童が合唱するうちに山本俊明君・忠政和美君が遺児を代表して除幕した。県や郡の来賓や村民関係者多数集まる中で、遺児代表忠政博子さんが塔前で「父に告げる文」を朗読すると、参列者一同しばし涙にむせんだと報じている。また、声欄の「慰霊塔建設に感泣す」の文に「合祀されている戦没者の霊は…全村民にとってわが子、わが兄弟、わが父、わが伯父、叔父として血の続かざる者は一人として無いのであります。…後日この慰霊塔の前を通る時は必ず一礼し、一層厳粛なる慰霊塔に致そうではありませんか。(涙のTK生)」と、うったえている。なお、慰霊塔創建当初は109柱であった。 彼岸の日を中心に、今も遺族・地域住民の真摯なお祭りが続けられている。
2012年2月12日取材(文:広野の歴史散歩 宮澤靖彦 編著より)