取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「丹後山」で検索した結果,16件の記事が見つかりました。

2022「津山さくらまつり」が賑やかに開かれています。

2022-3-27jyu1.jpg

 「津山さくらまつり」が4月10日まで 津山城(鶴山公園)をメーン会場に開催されます。今年も新型コロナウイルス感染拡大防止のため、バーベキュー・宴会・食べ歩きは禁止されました。(弁当は持ち込み可)
 2022年3月26日(土)オープンの日はあいにくの雨でしたが、翌日の3月27日(日)は雨も上がったので友を誘って上って来ました。丁度、本丸藤棚では津山城鉄砲隊が演舞を行っていて、鉄砲隊の撃つ銃の迫力のある音に思わず耳を覆う人もおられました。また、恒例のご当地グルメ屋台やステージイベントに加え、今年は、初めて花火を打ち上げるなど多彩な催しがあるようです。満開のさくらの木もありましたが、あと数日でソメイヨシノも見頃になるでしょう。皆さん是非おいで下さいね。 

2022「津山さくらまつり」が賑やかに開かれています。の続きを読む

キリシタン灯篭

800kirishitan-t-5.jpg

 ヨーロッパにつたえられた津山
 17世紀のはじめ、美作にも、青い目の宣教師が、いくたびかおとずれ、キリスト教を布教しています。そのころの津山の様子が、宣教師によって、次のようにヨーロッパに伝えられています。
「森忠政は、領内にキリシタンはいないと幕府に報告して、キリスト教を黙認している。城下町の近くには、美しい墓地があって、キリシタンは、そこに行って、祈りをささげている。墓地の中央には、高さが3メートルをこえる、すばらしい十字架ががある・・・。」(『日本キリシタン宗門史』より)

キリシタン灯篭の続きを読む

津山城の一番古い石垣

鶴山3-5-14.jpg

 2019年3月5日の津山城(鶴山公園)の石垣です。上記の写真の場所は本丸の東面の石垣です。
本丸にあるこちらの石垣は一番古い組み方です。この階段は武者走りの石段(全国でもまれ)で、丹後山からの攻撃を受けないように、わざわざ築かれた石垣ですが、現在は傷みが激しいです。津山城は、森忠政が慶長9年(1604)に築城にかかり、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月を要しました。

津山城の一番古い石垣の続きを読む

丹後山の石仏ーおこり石伝承ー

嘉永津山城下町絵図石仏.jpg

 日本に古くからある病気に「おこり(瘧)」という病気がありました。これは古代から知られており、「わらはやみ」とか「おこりやまい」などと呼ばれていました。定期的に悪寒・発熱などが起こる病気で、現在ではマラリヤ性の熱病と考えられています。
 このおこりを治す方法というのがさまざまに伝えられていて、たとえば石のコケやリンドウの花を煎じて飲むなどという療法が、伝承として残されています。また、こうした民間療法的なもののほかに、おこり石というものもありました。おこり石とは、霊験のある石に祈願しておこりを治すという呪術的な治療法です。これは各地に残されていますが、その一種と思われるものが丹後山にあります。
 それは石仏と呼ばれているものですが、今では訪れる人もなく、付近は荒れ放題になっていて、クマザサのやぶの端で斜めに倒れかかっています。この石仏は、他の地域でも見られるような地蔵などではなく、縦横一メートル五十センチほどの平らな石で、表に銘が彫られていますが正確には読み取れません。(上記地図写真:津山郷土博物館より)

丹後山の石仏ーおこり石伝承ーの続きを読む

芦田高子 文学碑(林田)

ashida4.jpg

「ふるさとを よぶこゑに あふれゐる時も 晴れて静かなり春の大那岐」芦田高子(あしだたかこ)
昭和の与謝野晶子と呼ばれる。高子(明治40年~昭和54年)は勝田郡勝北町出身。昭和22年、歌誌「新歌人」を主宰、晩年は金沢に住んだがふるさと美作を詠んだ作品は多い。作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘」が有名。
丹後山 昭和55年11月 設置

芦田高子 文学碑(林田)の続きを読む

阿黒谷(上之町)

2017-10-07aguro-terashita12.jpg

上之町(五丁目)と阿黒谷
 森藩時代から四丁目に続いて千光寺・蓮光寺などが、丹後山南麓に続く。
千光寺ゆかりの養護施設二葉園の前の道を山に向かえば、阿黒谷にかかり、丹後山への登山道となる。阿黒谷は、戦国時代、このあたりにいた土豪阿黒氏がいたところと伝えられている。武家町もこのあたりになると閑散としてくる。千光寺のしだれ桜は見事である。(文:城東観光 看板より)(2017年10月7日撮影)

阿黒谷(上之町)の続きを読む

津山・美作の国いにしえギャラリー by 江見写真館(第1回 梶村邸)

kajimura12.jpg

梶村家の歴史
 梶村家はもとの屋号を米屋といい、元禄年間(1695年頃)には出雲街道の南側に居住し、その後現在の地に住んだようである。
 宝暦年間(1760年頃)には山内屋と称しているが、商いは不明である。明和4年(1767)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許され茂渡藤右衛門と改名、その後数代にわたり「札元」を勤めている。
 梶村姓を名乗るのは明治4年(1871)からである。明治中期には平五郎が県会議員として県政に貢献し、銀行業務に尽くすかたわら和歌を得意とし明治42年(1909)の歌会始に入選するなど、美作地方の歌壇の発展に尽くした。また、長男良次もガス会社・製紙会社などの経営に活躍した。
 なお、平五郎などの和歌の活動の場となったのが、当家の後の果樹園に建っていた「千草舎」(ちぐさのや)と呼ばれていた庵である。そこで、このたびの修理で茶室にこの名を引き継いだ。
(文:梶村邸説明パネルより)(写真提供:江見写真館、※写真撮影の年代は全て賀陽宮様がお出でになった昭和6年のものだそうです。)※写真は「津山瓦版」のみ使用可です。

津山・美作の国いにしえギャラリー by 江見写真館(第1回 梶村邸)の続きを読む

紅葉が美しい、津山城(鶴山公園)2016

kakuzan8.jpg

2016年11月18日の津山城(鶴山公園)の様子です。天気予報では今晩から崩れ、明日は雨が降るとの予報に慌てて上がってきました。園内は紅葉が真っ盛りになろうとしたところです。明日のイベントの準備に追われる関係者の方々や、大阪から来られた観光客の方にお会いしました。明日、雨が降らないことを祈りつつ。

紅葉が美しい、津山城(鶴山公園)2016の続きを読む

早春の丹後山は清々しいです。(津山市林田)

tango32.jpg

2014年と3月2日と3月19日梅の花を探しに丹後山へ行って来ました。ここは昔、津山藩の重臣大塚丹後守の屋敷があったことが名前の由来。宮川を挟んで津山城跡と向き合い、桜の名所としても知られています。山頂には津山測候所や、キリ スト教の墓地等があります。城東地区と丹後山は深く関わり、山頂への道は5本を数えます。上之町通りから山頂までは10分で登れます。(2010年2月の丹後山)

早春の丹後山は清々しいです。(津山市林田)の続きを読む