津山・美作の国いにしえギャラリー by 江見写真館(第1回 梶村邸)

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梶村家の歴史
 梶村家はもとの屋号を米屋といい、元禄年間(1695年頃)には出雲街道の南側に居住し、その後現在の地に住んだようである。
 宝暦年間(1760年頃)には山内屋と称しているが、商いは不明である。明和4年(1767)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許され茂渡藤右衛門と改名、その後数代にわたり「札元」を勤めている。
 梶村姓を名乗るのは明治4年(1871)からである。明治中期には平五郎が県会議員として県政に貢献し、銀行業務に尽くすかたわら和歌を得意とし明治42年(1909)の歌会始に入選するなど、美作地方の歌壇の発展に尽くした。また、長男良次もガス会社・製紙会社などの経営に活躍した。
 なお、平五郎などの和歌の活動の場となったのが、当家の後の果樹園に建っていた「千草舎」(ちぐさのや)と呼ばれていた庵である。そこで、このたびの修理で茶室にこの名を引き継いだ。
(文:梶村邸説明パネルより)(写真提供:江見写真館、※写真撮影の年代は全て賀陽宮様がお出でになった昭和6年のものだそうです。)※写真は「津山瓦版」のみ使用可です。

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丹後山から工場を見る                 庭

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庭                          茶室

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蔵へ続く道              蔵

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客間

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賀陽宮様のための寝具                  和時計

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応接間                         パイプ椅子

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風呂場(浴室)蛇口が2つある。
当時から、水・熱湯が出る設備に驚く。

屋敷と建物
 旧梶村家住宅の敷地は、間口31.5m(18.5間)[注]、奥行34m(17間)である。その前面東寄りに主屋を置き、西方に高塀・門や庭園、後方に座敷・付属屋、背面に東蔵・西蔵・茶室・裏座敷や洋館などの8棟を配している。
 敷地の西側7m(3.5間)は、昭和3年(1928)に隣地を買い受けて現在の規模となり、その後に西蔵・茶室・高塀や庭園が設けられた。
 主屋は平入りのつし2階間口8間半、奥行7間と大規模で、平面はコミセをもつ複雑な間取りである。主屋の東寄り6間は江戸後期頃に建てられている。西寄り2間半の落棟の座敷は明治期に増築され、内部は昭和初期に改造されている。後世の改造は間取りばかりでなく、表構え・架構にまで及んでいる。表構えの腰石貼、格子がそれであり、架構では小屋束を継いで棟高を上げ、屋根勾配を3寸から5寸に強くしている。
座敷は二階建で大正期に新築され、当時の姿が良く保存されている。その他、洋館・東蔵が大正期に建てられている。 
 主屋は建築後の改造が大きく、今回の修理では本格的な復元は行わず、それぞれ整備に止めた。特に表構えは旧状に復元することは困難であった。
 このように、旧梶村家住宅は江戸後期頃に建てられた主屋から昭和初期の西蔵まで、各時代の変化に対応した改造・増築が行われており、時代とともに生きてきた変化に富む複合的な町家として、歴史を物語る貴重な遺構である。
 [注]1間は古書によったもので6.6尺(2m)


城東の町並
 城東地区は、城跡より宮川をはさんで東に位置し城下町の東の入口の町である。中世には、林田郷と呼ばれ繁栄していたと言われる。その地域はおよそ丹後山南麓の全域と考えられる。近世の城下町の形成にともない慶長・元和年間に橋本町・林田町・勝間田町が城下に入り、寛永・正保年間に中之町・西新町・東新町が編入され六町の町並が形成された。この町並の中を出雲街道が鍵曲りで屈折しながら東西に走っている。
 城東の町の商いは近在を相手とした雑貨の小商いを中心としているが、東新町は鎌・鍬などの鍛冶の製造と商いが江戸期より今日まで連綿と続けられている。明治になると中之町・西新町などに高瀬舟の舟持ちがあらわれている。又、西新町には日本の近代化学の基礎を築いた幕末の洋学者箕作阮甫の生家がある。城東の六町の北の背後に上之町の武家地がある。東西に細長く延びており、出雲街道と13本の小路でつながれている。この南北に延びる南下りの坂のある小路には西から西美濃屋小路・美須屋小路・国信小路・関貫小路・栴檀小路・長柄小路・松木小路・福田屋小路・藺田小路・札場小路・大隅小路・東美濃屋小路・瓦屋小路と言った通りの名がつけられている。この武家地は享保12年(1727)からは松平氏の石高が5万石となったため大半が明屋敷となった。しかし文政元年(1818)10万石復帰したことにより家臣数は再び増加し、明屋敷も少なくなった。武家地の北側の丹後山南麓には六箇寺が連なり東寺町とも呼ばれている。又、城東の氏神である大隅神社があり、変化に富んだ地形を生かした独特の景観を形成している。
 このように城東地区は、城下町の四つの要素である津山城跡と宮川をはさんで向かい会い、武家地・寺町・出雲街道沿いの町人地と城下町の総合的な構造が良く残っており、特に出雲街道の町並は平入りの低い軒並、格子戸、ナマコ壁、防火のための袖壁など往時の姿を良くとどめている。
(文:梶村邸説明パネルより)