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「作州忍者鶴山隊」第10回学習会

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 2021年4月21日「作州忍者鶴山隊」第10回学習会は、津山市観光協会前会長 竹内佑宜さんによる『幕末津山の密偵』と題した講演でした。竹内さんは郷土史家で鞍懸寅二郎研究会長も務めておられます。学習会では、津山の歴史文化について幅広く話され、会員参加者は熱心に耳を傾けておられました。津山の隠れた歴史文化を知る事もでき、時間が経つのを忘れるくらいでした。最後に忍者検定があり辛うじて通過してきました。(集合写真提供:克丸隊長)

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美作の大庄屋巡り「中島家」

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中島家 中島多右衛門 西北条郡香々美中村 松平藩
大庄屋まで
 香々美中村中島氏は、延享4年(1747)大庄屋岸三郎左衛門が職務を召し上げられたことにより、寛永2年(1749)姻戚関係のあった一宮村中島家から、多右衛門が香々美触の大庄屋に任命されて岸氏の屋敷に入り、跡を受け継いだ。
大庄屋として
 ペリー再来航のとき、中島多右衛門は、農夫77人を率いて江戸に赴いた。また、私塾「休嫌学舎」を開き、塾の指導者として鞍懸寅二郎を招いた。寅二郎は後に津山藩に登用され、藩論・尊皇攘夷を主導した。

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巨白庵の墓碑文から(中村)

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新善光寺にある巨白庵の墓碑に次のような文がある。
  先生諱文水三箇尻氏號巨白庵豊後大
  分郡入蔵邨人考日貞輔先生其第三子
  也幼入禅門天保定住播磨三日月邨慶
  雲寺嘉永三庚戌歳退隠美作東南条郡 
  野村吟花嘯月以自娯旁以句讀習字教
 先生の名は文水、号を巨白庵といい、豊後大分郡入蔵村の三箇尻貞輔先生の第三子である。幼少のころ禅門に入り天保年間に播磨三日月村の慶雲寺に住んだ。嘉永三年に寺を退去して美作東南条郡野村に住み、漢詩や歌を詠み、習字を教えたと記している。
 この文によると、巨白庵は嘉永三年(1850)に野村に来た。彼の前任の初代講師半仏道人は三年ほどで帰国したとすれば、村塾の開設年は「成名校沿革について」の文政末期より一六・七年後の弘化四年(1847)か嘉永元年(1848)であることになる。このとき文化十二年生れの保田平兵衛は三二・三歳、細岩井手の開鑿に取り掛かる安政元年の七・八年前であった。
 巨白庵について付け加えておく。
 嘉永三年(1850)野村に来たと墓碑にある。平兵衛の招聘によって塾の教師になったと思われ、以後「一四・五年間」も教えた後出雲へ行くが、塾の門人の要請により明治二年(1869)また帰って教師を続けた。

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津山藩の学問世話掛かり鞍懸寅二郎

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  幕末、津山藩と幕府や朝廷の間で活躍した武士の一人に、鞍懸寅二郎がいます。
 寅二郎は赤穂藩(兵庫県)の出身でしたが、若いとき江戸で儒学を学び、津山藩の学問世話掛かりとなり、幕府や他の藩との交渉役などをつとめました。また改政一揆では、民衆の説得に当たり、一揆をしずめました。
 明治になり、徳川の親戚である津山藩は、朝廷の敵とみられましたが、寅二郎は藩内をまとめ、津山藩が新政府に従うことを、政府や周りの藩に伝えました。
 その後寅二郎は、藩の代表として活躍する一方、政府の役人として、廃藩置県などの仕事を進めていましたが、1871年、津山で何者かに殺されました。

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本源寺 本堂(津山市小田中)

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▲東海山 本源禅寺 本堂 国指定重要文化財(2013年6月17日、7月3日取材)

 本源寺は、津山市街西部に位置する、臨済宗妙心寺派の寺院で、津山藩主森家の菩提寺である。境内中央に本堂が建ち、東に庫裏が並ぶ。本堂の北西が森家の墓所で、霊屋と霊屋表門を配する。
 本堂は慶長12年(1607年)に上棟され、桁行25.3m、梁間18.9mの方丈型本堂で、屋根は入母屋造、桟瓦葺とする。現在花頭窓が設けられている正面などは改変されているが、柱や梁組などの主要構造は当初の様子をよくとどめている。

詳しくは津山瓦版の過去取材の様子でご覧ください。

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