美作の大庄屋巡り「中島家」

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中島家 中島多右衛門 西北条郡香々美中村 松平藩
大庄屋まで
 香々美中村中島氏は、延享4年(1747)大庄屋岸三郎左衛門が職務を召し上げられたことにより、寛永2年(1749)姻戚関係のあった一宮村中島家から、多右衛門が香々美触の大庄屋に任命されて岸氏の屋敷に入り、跡を受け継いだ。
大庄屋として
 ペリー再来航のとき、中島多右衛門は、農夫77人を率いて江戸に赴いた。また、私塾「休嫌学舎」を開き、塾の指導者として鞍懸寅二郎を招いた。寅二郎は後に津山藩に登用され、藩論・尊皇攘夷を主導した。

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所在地
 岸家を参照
屋敷・墓地
 屋敷は、現在門を残すのみである。屋敷跡にはかつての建物跡が標示されているが、キンモクセイの巨木などがある。墓地は屋敷の南の丘陵にある。菩提寺は真言宗円通寺(鏡野町寺和田)である。
子孫 
 最後の大庄屋中島衛は自由民権運動の指導者として活躍した。中島家は江戸時代以後の古文書を残し、鏡野町に寄贈している。
(文:『美作の大庄屋~故地をたずねる~』より)

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中島衛先生
 明治初年、大庄屋・戸長。県会議員等を経て美作の自由民権運動の中心となり、地方産業の発展、自由民権の拡張、教育の振興に尽力される。
 明治十三年に「郷党親睦会」を結成。自由民権の伸張を図ると共に、国会開設請願を推進され、同十四年相互扶助組織「永代共済社」を設立。また岡山県初の政治雑誌「美作雑誌」を創刊。同十五年には「美作自由党」を結成。私財を投げ出し運動に取り組まれるなど、人と為り至誠にして、言えば必ず人を動かすと言われた。
 明治十八年、病を得て四十三年の生涯を終えられる。
平成四年五月 (文:現地看板より)

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鏡野町指定天然記念物の中島のモクセイ

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鏡野町指定天然記念物の中島のイチョウ

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大黒柱があった所です。

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休嫌学舎跡(後に津山藩勤皇派の士となった鞍懸寅二郎が中島家に寄留して教師となった。)

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札場跡                     御成門跡

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案内下さったのは、高宮惇さんです。

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墓地

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中島居宅図


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