大師山の石灯籠(安清)
久米苫田八十八ヵ所霊場八十一番札所
石灯籠、三輪の塔、地神様がある。阿弥陀如来安清の堂があったが、今はない。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
久米苫田八十八ヵ所霊場八十一番札所
石灯籠、三輪の塔、地神様がある。阿弥陀如来安清の堂があったが、今はない。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
安藤家 安藤善右兵衛(挙母藩)久米北条郡坪井下村
大庄屋まで
安藤氏は、周防の大内義隆の家臣であった。義隆が陶晴賢によって滅ばされた後、天正元年(1573)香々美庄、のち河本村(鏡野町)に移住し、寛文3年(1663)子孫の太郎兵衛が坪井村に帰農したという。家譜によると天明年間、善右兵衛の祖父勘兵衛が挙母藩の大庄屋に任命された。
大庄屋として
善右兵衛(善一)は、天保8年(1837)挙母藩の事務総掛を務めた後、大庄屋職を勤めている。慶応2年(1866)改政一揆のとき、津山に向う百姓に食物を与え説得して帰村させた。兄の鹿左衛門は救済などに献金し武士にとりたてられている。
美作国挙母藩領
元禄15年(1702)内藤領(安中のち挙母=豊田市)となった久米北条郡内の12か村5千石余が、明治4年(1871)まで、169年間にわたって内藤家の領地であった。これを統括する陣屋は坪井下村におかれた。
八十三番札所明谷の堂(明谷)久米苫田八十八ヵ所霊場 本尊は地蔵菩薩。
左側が 八十三番札所明谷の堂です。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
昭和51年に設置された岡山県津山総合体育館です。(岡山県津山市山北669)
すぐ傍には、津山市役所や大名庭園としての国指定された衆楽園などがあります。また、サッカー大会が行われる津山中央公園グラウンドがあり、ラモスカップもここで開催されました。敷地内には立派な弓道場などがあります。お子様連れの方には公園がありブランコなどで遊べます。体育館のほか柔道場、剣道場、トレーニング室などの設備もあります。(2011年5月3日撮影)
田口家 田口三郎兵衛 東北条郡籾山村 森藩
大庄屋まで
田口家の氏租は、田口光政といわれ、北高田城(横野村)に居城し、山名時氏に属して、美作の平定に功労があったといわれる。後裔は尼子氏に従い、永禄の頃毛利氏の属し、神楽尾城を守っていた。天正7年(1579)の落城後、宇喜多氏に属した時もあった。
田口三郎兵衛が森藩の大庄屋に任命され、籾山、勝部、志戸部、大田、川崎を合せて所管した。
大庄屋として
三郎兵衛は、森長継が家督相続をした時、有元平左衛門、中島九郎兵衛、鈴木九右衛門らと共に祝賀のため出府している。
津山市上田邑の田口山引乗寺は光政により創建され、田口家の菩提寺として庇護された。
関様・牛神様(明谷)
関様は美保神社(恵比寿様)の福の神、田の虫よけの神、牛神様は家畜の守り神。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
原の供養碑・札場跡(原)
原の出雲街道旧道にあり、「間務阿弥陀仏三十一カ遍供養塔」と「天保三年吉祥日坪井上村中組構中」と刻まれている。札場跡は江戸時代に藩の奉行所から村人に知らせる場所があった所。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)
山根の長者屋敷跡と貞清五輪の墓(山根)
天文の頃、貞清四郎左衛門が山根市場に居住しており、山根の長者と呼ばれていた。今も屋敷跡に古井戸がある。この屋敷跡の東の国道を超えた田の中に五輪塔がある。
(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)
京都の北西にある愛宕大権現は、王城鎮護の神として崇拝し、また火伏せの神として信仰を集めており、どの村でも愛宕様の祭りは行われている。
愛宕祭りは、正月二十四日とその前後を祭りの日と定め、また月々二十四日を愛宕精進といって酒を慎む人が多かった。
祭りは炬火を燃やして神事を行い、火災に備えるために愛宕の神に紙の弊を供えて、これを有事の際にその弊を立てて火災を免れたという話はこの村にも伝えられている。また、愛宕の代参講も行われるなど、火伏せの神としての祭りは村の大切な行事の一つであった。
坪井上立野の谷にあり黄銅鉱を産出。文久元年(1861)の頃採掘を始めた。明治30年頃から大正にかけては一時大盛況となったが、大正末に休山。昭和10年頃、昭和鉱山KKが再度始めたが終戦後銅価の暴落で閉山。すぐ後ろの山が茶臼山古墳である。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月29日撮影)