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取材記事内を検索ワード「街道」で検索した結果,229件の記事が見つかりました。

地蔵菩薩(津山市中村)

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 地蔵さんは、もっとも庶民にしたしまれた菩薩で髪を高く結んだり、美しい着衣で身を飾るようなことはせず、頭は剃髪し僧侶のように衣をまとい手に錫杖と宝珠をもっている。
 このように地蔵菩薩は比丘の姿で遊行し、多くの衆生に接し救済するといわれている。
 また年号や、願主名を刻まないものが多く、いかにも街道を行く衆生を対象とした純粋な信仰として造立された趣はほほえましい。  
 また地蔵さまは色々な俗称で呼ばれることが多く、何事にも成就がかなう仏で崇拝され、また地蔵にまつわる伝説もおおいい。 新善光寺地蔵菩薩 中村 新善光寺 地蔵菩薩立像 一体
(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)(2018年8月18日撮影)

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武蔵の記念館・武道館

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 剣聖宮本武蔵は、この地岡山県美作市宮本において、父・平田無二斎と、主家新免家の妹お政の次男として天正12年3月(1854年)に生まれました。
 武蔵の生家は、北を宮川で南を小童谷川で守り、30間(約60m)四方の強固な堀めぐらしていた、宮本の溝と呼ばれていました。山柴水明の山の丸い武蔵の里の構えは、地理的には山陽と山陰の重要な連絡路であった因播州街道に沿ってあり歴史的には中世、特に戦国時代には山陽と山陰の両勢力による略奪の地がこの旧大原町でありました。
 武蔵の家系は代々十手術を伝えてきたので、当然武蔵も平和な今日では考えられない厳しい剣の教育を受けたものと思われ、幼少の頃から武術にたけており、13歳の時播州平福で新当流有馬喜兵衛に勝ってからそれ以降、剣の道一筋に練磨し、その間京都の一乗寺下り松での吉岡一門との戦いを始め、29歳で九州舟島において、佐々木小次郎に勝つまで生涯60余度の勝負に一度も負けたことがありません。

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武蔵神社と宮本武蔵の墓(美作市)

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武蔵神社
 武蔵生誕地碑前から因幡街道を200㍍上った右側、字天王山にある。 郷土の生んだ剣聖「宮本武蔵」」を祀る神社として、昭和46年(1971)4月、武蔵奉賛会の趣意に賛同した全国1300余名の人たちからの浄財530万円をもって建立した。
 拝殿の正面上部の「武蔵神社」の額は、彫書芸術の創始者である彫無季謹作書のものである。また、社頭には、武蔵が好んだ唐の詩人白楽天の詩の一節「寒流帯月澄如鏡」を刻んだ「戦気の碑」が建てられている。

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「勝間田焼復活会」グループ展

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 本日は「勝間田焼復活会」グループ展にお越しくださいまして、誠にありがとうございます。
 勝間田焼きは平安時代末から鎌倉時代にかけて美作地域一帯で使用された焼物で、勝間田盆地の山間部一帯を主な生産地として発展した、青灰色で非常に硬質な焼物です。椀・小皿の食器類からこね鉢等の調理具、壷・甕等の貯蔵具など多様な製品を焼成しており、主に美作地域一帯から山陰地域にまで広域に流通していました。しかし、鎌倉時代までで生産されなくなり、記録等にも残っていないことから幻の陶器と称されています。

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文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩くNo.2)

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2018年3月10日の晴れた日に、津山郷土博物館主催の第114回文化財めぐり(近長~杉宮周辺を歩く)に参加して来ました。八幡神社から続いて向かったのは、西賀茂神社(杉さま古墳群・ナナミノ木)→苫勝霊場78番と石造物群→成名公民館駐車場までです。

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あけぼの旅館(文化庁 登録有形文化財)

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 あけぼの旅館は、津山城下町のほぼ中央部の津山市戸川町31番地に所在する。津山城下町の建設は、津山城の築城とともに、慶長9年(1604)から初代津山藩主森忠政によって開始され、およそ寛永年間(1624~44)頃には完成したとされている。
 城下町時代の戸川町は職人町で、慶長年間末以前は「富川」、以後は「戸川」の文字が用いられている。津山城下町を東西に走る出雲街道は戸川町の1本北側の本町2丁目と3丁目の通りにあたる。
 これまで、旅館名の表記は、あけぼの楼、阿けぼの、阿希ぼ乃、曙などとされてきたが、現在は「あけぼの」に統一されている。

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大岡家屋敷跡・墓所(池ヶ原)

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大岡熊次郎  1842年5月20日~1920年6月1日(天保13年~大正9年)
 地方政治家、篤農家、郷土史家、勝南郡(現津山市)池ケ原村に生まれる。
 寛政の駕籠訴訟を行った岡伊八郎の孫。明治元年(1968年)徳川親藩のため窮地にたたされた津山藩は、津山城包囲軍の交渉に、岡熊次郎を外事部の肩書で派遣して、津山城は無事開城することになりました。明治21年(1888年)大岡と改姓。
 明治6年(1874年)血税一揆による犯罪者の発生防ぐ。明治7年 北条県会議員。
 明治9年 第八番会議所戸長。明治11年~12年 勝南郡書記として、窮民救済に尽力。
 明治15年 自由民権運動に参加。明治13年~25年連続3期、勝南郡選出の県会議員を務めた。また、養蚕事業や畜産事業や高取小学校や勝間田農林高校(現・勝間田高校)のも貢献。享年79才:大正9年(1920年)6月高取村村葬。(文:『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)

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2018年ベッキオ・バンビーノがやって来た!

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Vecchio Bambino 2018 Primavera(チャリティークラシックカーラリー ベッキオ・バンビーノ2018春季大会)。2017年4月7日に約80台のクラシックカーが津山の商店街に勢ぞろいした。HPの情報によると、全国各地から集った参加者が岡山県の西半分を舞台とした2Dayクラシックカーラリーで、訪れる地域の方との観光交流と賑わいの創出、震災復興支援・交通事故遺児への寄付を目的としたイベントとして開催され8年目の春だそうです。
 Vecchio Bambino (ベッキオ・バンビーノ)とは、イタリア語で永遠の少年の心を持ち続ける大人、永遠の少年を意味しますだそうです。

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金刀比羅宮(西吉田)

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由緒・沿革 
 吉田神社の前身として、西吉田には2つの神社がありましたが、年代は不明とのことです。昔、出雲大社から御分霊を迎えて、西吉田地区内の南と北に祀りました。1社が現在の吉田神社の地、もう1社が現在金刀比羅宮のある地です。当初は、大国主神社と言っていましたが、その後、両国主大明神と改称しました。戦国時代、山名氏と戦い、敗れて西吉田に住み着いた難波氏がこの神社の社務に従事したとのことです。又、江戸時代、天明7年(1787年)西吉田が、千葉県の下総佐倉の城主堀田正順の領地になった時、現在の吉田神社の南下に陣屋を設け、この神社を鎮護の神社として、毎年3俵の寄進をしたとのことです。
 その後明治4年(1871年)2月に、北の国主大明神を南の現在地に合祀して、社名を吉田神社と改称しました。又、明治5年に北の跡地に金刀比羅宮を祀って現在に至っていますし、明治6年には村主となって、主祭神は大己貴神(大国主大神)です。(文:大崎地区歴史を考える会発行『大崎の歴史と文化出雲街道界隈編』より)(2018年2月25日撮影)

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