取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「碑」で検索した結果,401件の記事が見つかりました。

首切り塚(坪井下)

首切り塚5.jpg

首切り塚(磯尾)
 天正の頃(1500年代)、この地で捕らえられた謀反者の塚といわれ、近くに「腹切り田」という所もあった。北側の山裾にあったが中国自動車道工事のため現在地に移された。(文:出雲街道の史跡と文化財 津山市大井西自治協議会編)(2019年6月23日撮影)

首切り塚(坪井下)の続きを読む

大山あじさいロード(湯郷)

7-6oyama2.jpg

 2019年7月6日に、湯郷にある大山あじさいロードを訪ねてきました。
記念碑に「市道大山線、総延長2,190m、工事期間:昭和61年着工 平成8年完成。平成10年から大山住民により新たな観光地を目指し、あじさいの植栽に着手、現植栽本数 約2,700株、本年大山あじさいロード事業完了を記念し、記念碑を建立する 平成27年9月吉日 大山部落」と書いてありました。 綺麗に咲いている色とりどりのあじさいの花を拝見して、大山部落の皆様の努力に感激しました。

大山あじさいロード(湯郷)の続きを読む

大日如来(上村・新野山形)

furodainichi2.jpg

 牛が病死すると、万人講と言ってみんなで少しづつ金を出し合って供養を行う。またその金の一部を残し次の牛の購入代金の足しにする習わしはどの村でも行われた。
 農家では「牛は主人の身代わり」とも言われて、死んだ牛が家の災難を背負っていったという意識が強かった。死んだ牛の供養のために村では、馬頭観音や大日如来の像や文字を刻んだ石碑を村境などに建て、牛の供養や安全を祈願した。
 村の大日様・大日如来をもって牛の守り本尊とする習わしは、岡山・鳥取・島根の一部の地方に限られた信仰と言われており、牛は農家の経済にとって重要な存在でどこの家でも俗に「内厩」と言って母屋の内に牛舎を設け、家族同様の扱いがなされた。
 石碑に刻まれた大日如来の文字の力強さは牛に対する慈悲が込められている。

(文:勝北公民館発行『勝北むらの石仏』より)(2019年2月12日撮影)

大日如来(上村・新野山形)の続きを読む

宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)

ogatakouan5.jpg

 適塾(てきじゅく)で有名な緒方洪庵(おがたこうあん)は宇田川玄真の孫弟子にあたります。
日本に西洋医学の基礎を築いた緒方洪庵は、足守藩の佐伯惟因の末子で名を章といい、文化七年(1810)この屋敷に生まれた。はじめ、大阪の中天遊について和蘭学を修め、21歳の時江戸に出て坪井信道、宇田川玄真に蘭学を学び、また長崎に下り蘭医ニールマンに学ぶ。天保9年(1838)大阪に蘭学塾を開いたが、集まる門弟3千人と称せられ、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介などもその塾生であった。文久2年(1862)幕府奥医師兼西洋医学所頭取になったが、翌3年6月10日江戸で病没、54歳。この屋敷跡は岡山県史跡の指定されている。岡山県・岡山市(文:現地案内板より)

宇田川玄真の孫弟子、緒方洪庵生誕地(県指定史跡)の続きを読む

坪井陣屋(代官所)跡

5-30陣屋跡1.jpg

 現在の久米町のほぼ1/5の面積を占める、旧久米北条郡十二ヵ村は、慶長八年(1603)以降、森氏(津山藩)の領内であった。
 しかしながら、元禄十年(1697)八月に四代藩主森長成が後嗣なく死去したことにより、森氏が断絶し、美作国全土は一時幕府領となった。このことにより上記十二ヵ村を含む美作国勝南・久米南条・久米北条・真島の四郡については、翌 元禄十一年九月、幕府の代官所が坪井下村におかれ、代官として西与一左衛門が着任、領内を統治した。
 その後、元禄十五年(1702)九月二十三日、上記の十二ヵ村は上野安中城主内藤氏の領するところとなった。内藤氏は、それまで陸奥国岩城城主であったが、内藤政森(1683~1738)の代に上野国碓氷と久米北条の二郡を所領とし、上野安中城に居所を置いた。(安中藩)その後内藤政苗(延享三年(1746)襲封)の代に、上野国分の所領を三河国加茂・遠江国周知・榛原の三郡に移され、三河国加茂郡拳母(現 愛知県豊田市)に築城したが(拳母藩)、久米北条郡については引き続き領有が続き、明治四年(1871)の廃藩置県に至るのである。
 元禄十一年に幕府領となった際、坪井下村に置かれた代官所は、その後幕府から内藤藩に譲渡され、陣屋として明治まで継承したが、坪井宿内のほぼ中心であるこの場所にあったと伝えられている。内藤藩時代の陣屋は、五百七十坪の敷地を有し、この中に三百三十坪程の面積の建物があったという。そして、拳母城から郡奉行以下八名が出張し(一年毎に半数が交代)、これらの人数と領内から任用した大庄屋二名を選び、領邑を統治したということである。

坪井陣屋(代官所)跡の続きを読む

道祖神(原・新野山形)

hara-dousojin3.jpg

 道祖神はいろいろな信仰を含んでいる。旅の神・道の神など考える人も多い。また村の入り口や峠などに祀られている所もあり、境を守る神、悪魔を追い払う神などともいえる。
 道祖神は普通サエノカミ・サイノカミなどと呼ばれている。その信仰はほとんど全国にわたっている。道祖神の像塔が見られるようになるのは概ね寛文以後のことのようであり、それ以前はおそらく自然石を神体としていたと思われる。
 山形の道祖神は磧石または花崗岩を丸くした自然石に「道祖神」と浅刻されており、色・形状は男性の象徴を思わせ、道祖本来の原形を偲ばせて微笑ましい。

道祖神(原・新野山形)の続きを読む

大峰山大権現(新野山形・杉宮)

gongen1.jpg

 大峰山大権現の石碑はよく光明真言百萬遍の石碑とともに建てられているものが多い。仏教上の権威を表す梵字が上に刻まれている。
 限りない仏の功徳を現わす「種子」はすべての功徳の生まれることを、草木の種子にたとえて刻まれるもので念仏供養塔などには阿弥陀の種子が多くみられる。
 大峰山大権現は奈良県にある大峰山に登り霊場に参拝するもので、山上ヶ岳から大日岳を主脈とした地域は古くから山岳信仰の地として知られている。
 4月から10月にかけて修験者の修行が行われており、それにちなんだ行事として地方でも「庚申侍」をする講が開かれるなどの大峰山信仰による延命招福を願う人達が村の辻や人目につきやすい路傍に石碑を建て村人の連携を深めていた。

大峰山大権現(新野山形・杉宮)の続きを読む

修験者の堂・圓満寺

enmanji8.jpg

修験者の堂・円万寺 毎年8月祈祷祭続く
 勝北町坂上の国道五三号線から、北側にわずか入ったところに、カリンの大木が聳える堂が見える。土地の人からは行者堂または円満寺(円万寺)と呼ばれ、かっては苫勝霊場三六番の札所であり、数年前に改築が行われよく整備されている。この寺について「勝加茂史」には、真言宗醍醐派三宝院の末寺円万寺花王院、元禄十一年(一六九八)あるいは天明二年(一七八二)の創立ともいわれ、本尊は如意輪観音と載せられている。
 せんねんの町文化財保護委員会の調査では、木造の役行者像や数体の仏像と鋳鉄製の高さ十二cmあまりの如意輪観世音菩薩像一体があった。この観音の台座には、施主流郷重郎右衛門・全吉左衛門・全株内、冶工作陽柱百済清治郎藤原正邦作の銘があり、施主名などから江戸時代末期ごろの作品と思われる。

修験者の堂・圓満寺の続きを読む

山の神(原)

hara-yamagami2.jpg

 「春に山より下りてきて田の神になる山の神は五穀豊穣をもたらす農耕の神であり秋終りにはまた山に帰って山の神となる。」とも言われ山村に住む人たちの信仰する山の神の呼び名があり、ダンナサマ・ジュウニサマ・サガミサマ・ノタガミなどとも呼ばれている。
 石造としては祠の物が多くあるが、自然石に「山神」「大山祗命」などと彫ったものが各地にもある。

山の神(原)の続きを読む