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取材記事内を検索ワード「神社」で検索した結果,759件の記事が見つかりました。

時切稲荷神社(久米南町)

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 2020年9月13日に誕生寺をお尋ねした時に、地元の方に「時切稲荷へ行ってみたら?遠くから来られているよ!」と声をかけていただいたので行ってみることにしました。


 「とっきりさま」(時切稲荷神社)~止まった「時間(とき)」を動かす神社~
時を決めて、なくした恋をとっきりさまに託してみませんか。
 「〇年〇月〇日までに〇〇を見つけてください」と時を決めてお祈りすると、不思議なことにその日までになくしたものが出てくるというお稲荷さん。岡山県内はもとより、全国でも珍しいとのこと。この「とっきりさま」にお祈りしても、自分で決めた日までに失くした恋が戻らなかったら・・・。その日があなたの再スタートの日。忘れられない恋を抱えて時間が止まったまま、立ち直るきっかけを見つけられない時は、この「とっきりさま」を訪れてみては。(文:境内の説明文より)

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倉見神社(加茂町)

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由緒
 口碑によると、正和三年神託により大山祇大神・闇見津羽命を勧請したという。二柱の大神はいずれも鉄山業者の崇敬神である。由来此の地が砂鉄採掘の盛んに行れた地であることは、現存する遺跡や、倉見の地名などで明らかである。元和十年・慶安元年・天和三年に再建した。天正五年に国司神社を合祀した。明治六年二月倉見神社と改称し、明治九年村社に列せられた。(文:『岡山県神社庁HP』より)(2020年8月8日撮影)

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天満神社(河辺)

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由緒
 第六十代醍醐帝の延喜元年菅原道真公が大宰府に左遷せられた時、この地の志とと原まで御輦を運ばれた時に、野辺の梅花の春風に散っている様を御覧になり、住みなれた都の名残を惜み感涙を流されたという。延喜三年二月二十五日に薨去になり、その後、この里人に度々霊夢があったので、長徳の頃この志とと原に一宇を建立して、見帰天神宮と奉称した。(文:『岡山県神社庁HPより』)(2020年8月3日撮影)

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金屋神社(金屋)

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由緒
 百済王敬福の末裔、百済源次家久が観応2年(1351)3月官命によって、長岡郷に移住し鋳工を始めた。世人はこれを釜屋と呼び、業が大いに盛んになり、人家が集合して一邑をなしたという。当時の釜屋が現在の金屋である。家久は猿田彦神を守護神として祀り金屋権現と称した。明治4年金屋神社と改称し、明治6年村社に列した。昭和24年摂社八幡神社を合祀して相殿に祀っている。(文:『岡山県神社誌』より抜粋)(2020年6月27日撮影)

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木山神社(堂尾)

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 「木山神社」の扁額が掲げられた鳥居の奥の境内には、常夜灯、御手洗、拝殿があり数社の境内社が祀られている。「木山神社」は拝殿の奥に細工がしっかりされた「社」が鎮座している。
 近所の方の話では、由緒、勧請時期などの情報は不明だが、近くにあった山城跡から現在の場所に遷座されたのでは?と話されていた。勧請時期などは不明。(文:『私たちの木山さま』より)(2020年8月14日撮影)

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大崎神社(金井)

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由緒・沿革
 森家明神帳によれば、三條天皇の時代長和4年(1015年)11月に前年秋季より金井郷内に疫病が流行して死亡する者が多く、1年余り経っても尚止まらず、益々甚しく、これを美作守 源道方に訴えました。
 道方は当時宮内卿と美作守も兼務しており、宮内史より崇神天皇5年天下に疫病流行して止まないので、翌年大和笠縫の里に大國魂神、大物主神を勧請して三輪明神と崇めたら、天下の疫病ことごとく治ったこの例を聞き、道方は同年の貢物稲百を以って長和5年5月当郷に大國魂神を勧請して西大崎明神と、大物主神を勧請して東大崎明神と崇めたら、疫病がたちまち鎮静しました。
 以って、この明神に不敬ある族は必ず疫病に懸かり又は不幸に陥ると氏子大いに恐れ厚く尊崇しました。
 東大崎、西大崎と神号を称したのは勝田郡第一の大山和気山と、高篠山乾良の2股に延びる全村がこの股間に在り、西の山脉の里金井に達して止るこの尾根先に勧請したのを西大崎と、東の山脉の里中原に達して止るこの尾根先に勧請したのを東大崎と神号したことが、東西大崎の神号が起る由縁なりと書かれています。
 明治6年官命を以って金井神社と奉称し、明治15年更に大崎神社と改称しました。
(美作国神社資料及び水島宮司資料から)

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白山神社(金井)

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由緒・沿革   
 白山神社は、堀川天皇の嘉承2年(西暦1108年)、現在より901年前、岸本伊豫守元親(いよのかみもとちか)が建立したものです。
 元親は、伊勢皇太神宮へ参籠の折の初夢の御教えにより、源義親(みなもとよしちか)の軍に従って、その功によって平正盛より金井村田淵城を賜りました。新恩に感謝した元親は、伊雑宮(いぞうぐう)の御祭神、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の2神を迎えてこの地に祀り、城の鎮守としたのです。
御利益/歯痛平癒 流疫退除 安産守護

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洗顔清水周辺の景色(種)

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 津山市種にある洗顔清水周辺の景色はいつ見ても心が癒されます。後醍醐天皇が通られたという説に納得してしまいます。
 この道は、毎年「さらやま時代まつり」のイベントが行われる所でもあり、歩くと道の両脇に季節が感じれます。山々の景色、また、野菜や庭先のお花など自然がいっぱいで大好きな所です。(2020年7月25日撮影)

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芭蕉塚と黒田畝中(宮部下)

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 大字宮部下に芭蕉塚が現存する、ここには二つの句碑があって、その一基には松尾芭蕉の句が刻んであり、他の一基には芭蕉の句碑を建てた人と推定される黒田畝中の辞世の句と思われる句が刻まれていて、土地の人は此の二つ並んだ句碑を総称して「芭蕉塚」と称して今日に及んでいる。
此の二つの句碑には建立の年月日も刻んでなければ句碑を建てた人の名前もなく、おまけによきほどにの句の作者も無く、句だけが刻まれているのである。このことについて塩尼青茄氏はその著『岡山の芭蕉句碑』の中で次の様にのべられている。
 (芭蕉の)あまり有名でもない句を、それも作者の名も出さず、もちろん建立者の名も建立年月日も刻まずに建てた心を私は尊く思う。畝中は茶堂の新築に際して芭蕉句碑をそれも句だけ刻んで建てることによって浮世の見聞から離れて立つ自分をかえり見たかったのではなかろうか。それにしてもこうした建立者の名を刻まない芭蕉句碑を見るとき私は調査の困難さに困却するものの半面また昔の俳人たちの姿勢に思いをいたさずにはおられない。現代俳人の句碑のむなしさは、常に見聞がうすぎたなく漂うところにあるような気がする。畝中の辞世句碑も、これまた作者の名前も刻んでない。

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物見に伝わる千利休の伝説

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利休屋敷
  上加茂村物見のツエガ谷に在り廣さ260坪、口碑に傳ふ千利休此の地に生れ茶道に長ず。天正9年10月羽柴秀吉因州征伐の時中國より美作に入り高山城を攻め物見を越えて因幡に向ふ。利休この時出でて、供奉せしものなりと。里人古來利休の遺風を慕ひ正月元朝挽茶を用うるを例とす。又利休の異名を物草太郎と曰ひしは物見の一字を冒せしものとなりと。屋敷の一隅に利休の末裔八兵衛の墓あり、墓側に周圍二丈に餘る槻の巨樹あり。明和4年八兵衛が天満神社に記念奉納のため栽植せしものにして八兵衛槻と曰へり。樹は大正2年神社合祀の際伐採せり。(文『苫田郡誌』より抜粋)


千八兵衛の墓
 上加茂村大字物見に在り、自然石にして高さ三尺輻一尺餘刻して圓壽奉冷信士と有り。口碑に傅ふ八兵衛は千利休の末裔にして安永7年5月25日此の地に歿せしものなりと。
(文『苫田郡誌』より抜粋)

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