時切稲荷神社(久米南町)

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 2020年9月13日に誕生寺をお尋ねした時に、地元の方に「時切稲荷へ行ってみたら?遠くから来られているよ!」と声をかけていただいたので行ってみることにしました。


 「とっきりさま」(時切稲荷神社)~止まった「時間(とき)」を動かす神社~
時を決めて、なくした恋をとっきりさまに託してみませんか。
 「〇年〇月〇日までに〇〇を見つけてください」と時を決めてお祈りすると、不思議なことにその日までになくしたものが出てくるというお稲荷さん。岡山県内はもとより、全国でも珍しいとのこと。この「とっきりさま」にお祈りしても、自分で決めた日までに失くした恋が戻らなかったら・・・。その日があなたの再スタートの日。忘れられない恋を抱えて時間が止まったまま、立ち直るきっかけを見つけられない時は、この「とっきりさま」を訪れてみては。(文:境内の説明文より)

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新しい案内看板です。      丁度稲刈りの時期でした。    誕生寺

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田圃の中に続く道を横目に進む。         裏参道が見えてきました。

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稲荷大明神ののぼりがあります。

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鳥居です。

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鳥居を抜けるとほどなくして境内に着きました。

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時切稲荷神社です。

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横側には新しい絵馬が沢山奉納されています。

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とっきりさまの説明に御朱印です。

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時切稲荷神社略縁起がありました。

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手水鉢です。

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表参道です。

時切稲荷神社略縁起
 時切稲荷神社は京都市伏見稲荷大社から分霊して、栃社山誕生寺守護の目的で、天正15年(1586)以前に、原田三河守の本丸城跡(現在も小さな祠が祀られている)に祭司され、大正の頃、現在地に移転鎮座された。
 鎮座間もない頃の写真が、誕生寺と、津山エス写真館に存在する筈である。
 現在稲荷神社の社殿の立つ山は、元来里方の大字が管理する山であり、そこにあった古墳の址に建立された推定さる。建築年代は大正初年と言われるのみで、詳細は不明である。
 分霊の記録は、伏見稲荷大社の、稲荷山文書にあったと思われるが、応仁の乱(文明9年1967-1977)に焼失し、その後昭和初年、羽黒文書(山形県羽黒山)に、全国約4700の稲荷神社とともに登記されている。
 祭神は、宇賀魂命(うけのみたまのみこと)。神使(しんし)は狐。
 稲荷の神は、平安時代、京都の教王護国寺(東寺)の鎮守として、その勢力を背景に全国に広く崇拝されるようになった。
 山城の国を中心として、近畿一帯に繁栄した秦氏(はだうじ)の氏神であるため、漆間家(法然上人の母秦氏)との縁により、加茂神社と共に、誕生寺の守護神として勧請されたと推定される。
稲荷の祭神である宇賀魂命は、本来は田の神として五穀を司る神であったが、中世から近世にかけて、商業経済の発展に伴い、農耕神から、商売繁盛の神としても信仰を集めるようになった。
 戦前の社格は「村社」であり、年2回の祭典には村長が出席して祭祀料を奉納した。
 大祭は初午(陰暦2月の最初の午の日)と、夏の土用の入り(立秋の18日前)の2回であったが、近年は日曜日に行なわれている。供物は、赤飯と油揚げ。
 この稲荷に、尋ね人、失せ者の発見、恋愛成就などを叶えたいとき、「何月何日何時までに」と、時を切って祈願すれば、必ずその時までに叶えられると言うご利益が、巷間に伝えられいつともなく「時切稲荷」(とききりいなり)と呼ばれるようになり、それが訛って、「トッキリサマ」と愛称されるようになった。全国約4700社の稲荷神社で、この「時切」の称号を持つ稲荷神社は他になく、霊顕あらたかな神社であると言われてきた。
 昭和10年頃、大正の頃に奉納された「無理な願いを時まで切って叶えなされるありがたさ」と書いた絵馬が発見され、その記事が山陽新聞に掲載されて「時切稲荷」の名が一挙に高められた。昭和初期から太平洋戦争までのピーク時には、近郷近在はもとより、遠く阪神や広島方面からの参詣が続き、門前の河本豆腐店では、毎日早朝から500枚以上の油揚げが作られ、その殆どが時切稲荷に供えられて、神社の前に積み上げられるため、宮司は毎日その片付けに困ったということは、今も語り草となっている。
 当時、べんがら塗りの鳥居と「大願成就」の幟がびっしりと参道や境内に林立し、絵馬が社伝の回りに溢れ、稲荷の山は赤一色に染められて、山裾を通る中国鉄道から眺められた。
 宮司は、代々塩島氏に継がれたが、昭和50年頃からは稲岡氏に交替し、現在は中力宮司に引き継がれている。
ちなみに稲荷の鳥居は、根元に黒の根包みを施し、島木の端が垂直であるのが特徴である。
平成30年11月記 中島義雄 (文:時切神社境内の案内より)