取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「碑」で検索した結果,394件の記事が見つかりました。

巨白庵の墓碑文から(中村)

kyohakuan7.jpg

新善光寺にある巨白庵の墓碑に次のような文がある。
  先生諱文水三箇尻氏號巨白庵豊後大
  分郡入蔵邨人考日貞輔先生其第三子
  也幼入禅門天保定住播磨三日月邨慶
  雲寺嘉永三庚戌歳退隠美作東南条郡 
  野村吟花嘯月以自娯旁以句讀習字教
 先生の名は文水、号を巨白庵といい、豊後大分郡入蔵村の三箇尻貞輔先生の第三子である。幼少のころ禅門に入り天保年間に播磨三日月村の慶雲寺に住んだ。嘉永三年に寺を退去して美作東南条郡野村に住み、漢詩や歌を詠み、習字を教えたと記している。
 この文によると、巨白庵は嘉永三年(1850)に野村に来た。彼の前任の初代講師半仏道人は三年ほどで帰国したとすれば、村塾の開設年は「成名校沿革について」の文政末期より一六・七年後の弘化四年(1847)か嘉永元年(1848)であることになる。このとき文化十二年生れの保田平兵衛は三二・三歳、細岩井手の開鑿に取り掛かる安政元年の七・八年前であった。
 巨白庵について付け加えておく。
 嘉永三年(1850)野村に来たと墓碑にある。平兵衛の招聘によって塾の教師になったと思われ、以後「一四・五年間」も教えた後出雲へ行くが、塾の門人の要請により明治二年(1869)また帰って教師を続けた。

巨白庵の墓碑文から(中村)の続きを読む

津山洋学資料館 春季企画展「文明開化と美作の医学」

yougaku30.jpg

平成30年度津山洋学資料館春季企画展 「明治150年記念 洋学資料館所蔵資料から見た文明開化と美作の医学」より

維新前夜
 幕末の日本は、ペリー来航、開国から、尊皇攘夷の高まり、長州征伐、尊王倒幕、大政奉還と続き、戊辰戦争へとつながる動乱の時代でした。事件・出来事に対する情報が錯綜し、流言飛語が飛び交うなど騒然とした雰囲気が社会を包んでいました。そのような中で、人々はより正確な情報を求めました。友人知人からの手紙では、自身の近況のみならず、巷に流れる噂や、知り得た情報が報告されるようになります。また、幕末には「新聞」が生まれましたが、中には発行者にとって有利な状況を作るべく、それぞれの立場から見た情報を庶民に提供するものもありました。
 このような混乱の中で、江戸幕府から新政府へと政権は移り、270年続いた江戸時代は終わりを告げたのです。しかし、民衆にとっては、それで混乱が沈静化したわけではなく、その後に続く新たな変化の始まりでもありました。


津山洋学資料館 春季企画展「文明開化と美作の医学」の続きを読む

知恵を願う文殊菩薩(山形)

2018-10-6monjyu.jpg

知恵を願う文殊菩薩 筆などを供え素朴さ残す
  勝北町山形の字寺尾、八幡神社の上り道のかたわらに、石造りの「文殊菩薩」と彫った文字塔が、ひっそりと立っている。
 石塔の高さ七〇cm、表面の下方に蓮華を彫り、その上の中央に「文殊菩薩」右方に「文政七年」「世話人忠蔵」左方に「申八月日」「其外連中」と刻銘されている。文政七年といえば、今から一六七年前、世話人忠蔵を中心として、文殊信仰に篤いこの付近の人びとによって、建立されたものであろう。

知恵を願う文殊菩薩(山形)の続きを読む

白石不舎 文学碑(山下)

fsya2.jpg

「佐保姫に合ふ靴をおく花の下」 白石不舎(しらいしふしゃ)
白石不舎(大正13年9月1日~平成24年2月26日)は西東三鬼に師事。以降、俳句教室や俳句結社「綱」を主宰。句集「作州」を発表。
三鬼の句墓碑や生誕地句碑を建立したほか、「三鬼顕彰全国俳句大会」「西東三鬼賞」「曲水の宴俳句会」の開催にも精力的に取り組み、直弟子として師の顕彰に努めた。
津山市出身。本名 白石 哲。津山文化センター 平成24年9月 設置 
(文:『津山市文化協会創立60周年記念誌 津山文化』より)

白石不舎 文学碑(山下)の続きを読む

日本野・開祖の墓碑(日本原)

nihon2.jpg

まちの文化財 日本野・開祖の墓地
顕彰される福田五兵衛
日本原の街のはずれ、日本坂の上の丘に苔むした自然石の墓碑がひっそりと建っている。この墓碑には
元文五申年 雲仙信士霊 九月初六日
此聖霊者国々嶋々無残
順廻仕依而諸人稱日本
五兵衛是以此所日本野ト申傅也
日本野元祖 俗名 福田五兵衛 と刻まれている。
 作陽誌によれば「正徳(1700年)の頃、日本廻国をして、終りにこの地に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて、往来の人を憩はしめ、あるいは行臥したる者などを宿めてもっぱら慈愛を施せしかば、誰言ふとなく「日本廻国茶屋」と呼びならわせしを、後には略して日本とばかり唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と稱するも時勢と言うべし」と記されている。
 この墓の王は、雲仙信士で、日本野元祖福田五兵衛である。墓碑は、後世この地の人々が五兵衛の徳を顕彰して建てたものと思われる。死没した当時、広戸五穀寺の過去帳には「日本」の地名はなく、五兵衛の没後五十年を経て天明五年六月八日「日本忠助の子」とあり、それ以後死亡者には、ことごとく「日本」という名称が付けられいる。
 「日本原」の地名は、日本廻国をして善行を積んだ福田五兵衛を偲んで名づけたものと思われる。
(勝北町文化財保護委員長・金田一記)(『平成5年発行:勝北風の里探訪』より)

日本野・開祖の墓碑(日本原)の続きを読む

藤原顕輔 文学碑(総社)

bungakuhi.jpg

「過ぎつらん都のこともとふベきに雲のよそにもわたる月かな」 藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)
元永元年(1118)美作国守になった顕輔が若いころの介の位で美作国に着任、山国の名月に遠い都をしのんで詠んだ。顕輔は崇徳天皇の勅命で「詞花和歌集」を撰したがこの歌は「続詞花和歌集」に収録されていて名高い。
書は中原垂揚氏。神楽尾公園 昭和54年10月 設置

藤原顕輔 文学碑(総社)の続きを読む

近長代官 沼尻又治郎重遠墓(中村)

shinzenkouji9.jpg

近長陣屋領内であった勝加茂西中の真言宗新善光寺境内鐘楼の巽位に近長代官沼尻又治郎の墓があり、自然石の碑に
沼尻又次郎重遠墓
先考仕吾 土浦候嘉永癸丑四月為近長令赴任癸丑七月罹病以五日沒于府舎無子故以甥重道為嗣葬新善光寺謚曰 沼蓮院甫仭義照居士
と刻まれて居る。碑文には病死と記されてあるも事実は近長大庄屋甲田猪右ヱ門方に於いて自刃したものであり、其死因に就ても俚傳があるも明確でなく、此没後甲田猪右ヱ門が公用の道中、攝津尼ヶ﨑附近に於て沼尻氏の為めに討たれたとのことが傳へられてゐる。

近長代官 沼尻又治郎重遠墓(中村)の続きを読む

2018 津山城(鶴山公園)の彼岸花

higan1.jpg

2018年9月26日、曇り空の津山城(鶴山公園)です。すでに富士山には初冠雪があったようですね。そんな気候の津山ですが、もう、彼岸花は終わりを告げているだろうと思いながら上がってきました。所々に花盛りの箇所があり、さっそく教えて頂いた職員さん(感謝)に許可をもらって撮って来ましたよ~。ほんと、いつ来ても新たな発見があるものですね。

2018 津山城(鶴山公園)の彼岸花の続きを読む

谷崎潤一郎文学碑(小田中)

tanizaki4.jpg

「疎開日記」碑 谷崎潤一郎
「池に落つる雨の音侘し。因に云ふ。この御殿は明治初年にお城より此処に移し建てしものの由にて、愛山宕々庵と号す。床の間に松平康倫公の書『愛山』の軸をかけ、その上に鶴堂公書『宕々庵』の額あり。6畳の間に慎由公夫人静儀の和歌『山は今朝霞のきぬにつつまれて千代の色そふ松の対立』の額あり。」
文豪、谷崎は終戦間際の昭和20年津山に疎開。宕々庵で「細雪」を書き継いだ。八子・愛山

谷崎潤一郎文学碑(小田中)の続きを読む

芦田高子 文学碑(林田)

ashida4.jpg

「ふるさとを よぶこゑに あふれゐる時も 晴れて静かなり春の大那岐」芦田高子(あしだたかこ)
昭和の与謝野晶子と呼ばれる。高子(明治40年~昭和54年)は勝田郡勝北町出身。昭和22年、歌誌「新歌人」を主宰、晩年は金沢に住んだがふるさと美作を詠んだ作品は多い。作品では内灘反基地闘争に材を取ったヒューマンな「内灘」が有名。
丹後山 昭和55年11月 設置

芦田高子 文学碑(林田)の続きを読む