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取材記事内を検索ワード「碑」で検索した結果,394件の記事が見つかりました。

荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)文学碑

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「霧に花売の行く川の水はれてゆく」 荻原井泉水
俳誌「層雲」を主宰した井泉水(明治17年~昭和51年)は自由律俳句を確立、日本芸術院会員となり晩年は独自の俳画「草画」を描いた。この作品は昭和16年、津山を訪れ、いまも津山情緒になっている八出の花売り女を詠んだ。千代稲荷宮

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竹久雨町(たけひさうてい)文学碑

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「花の上に花現れて夜の城」  竹久雨町
雨町(うてい)(明治27年~昭和47年)は大正14年、山陽吟社を創立、俳誌「山彦」を創刊、半世紀近く郷土俳壇の糧となった。また「雲母」同人となり津山支社を設立したが、飯田蛇笏主宰の死に殉じて解散。勝央町出身。本名 豊。城南病院東 昭和55年11月 設置

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小原千座(おはらちくら)文学碑

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「なかなかに まきし垣ねはさもなくて そともの方に しげる なでしこ」 小原千座
千座(寛政5年~慶応4年)は江戸時代の豪農、立石家(二宮)の家系に生まれ徳守神社の神官、小原家の養子となった。幕末の歌人平賀元義が美作の名人30人の筆頭に挙げているように美作歌壇の開拓者としての足跡が大きい。三枚橋南 昭和54年10月 設置

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直 頼高 文学碑(文化センター)

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「おのつから あゆみもおそくなりにけり さくら花さく のべのかよひち」 直 頼高
美作三歌人の一人とされる頼高(安政6年~大正8年)は上之町、大隅神社の神主として梅の木に囲まれた「梅の下舎」で美作歌壇を指導、歌誌「水甕」主宰、尾上柴舟に歌の手ほどきをした。秋久家に老梅が残る「梅の下舎」跡がある。
薬研濠北

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廻国供養の碑(中村)

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 近世において廻国聖と称す一種の聖が日本六十六国の霊場を遍歴し、一部づつの如法経を納めて歩いた。
 到るところで費用を勧進してゆき、頭を布で包み白衣に笈を背負い鉦を叩いて善根を勧進して歩く。一種特別な服装で遊行するものもあれば、巡礼姿に身をやつし廻国する農民も多かった。
 しかし本物の廻国聖でさえ六十六国を廻り尽くしたものはすくなく、遠国の道のりを他国の風物に接し、疲れと病を気づかう不安との戦いののち無事本願成就の暁に地元に廻国の記念碑を建てた。
廻国記念地蔵菩薩/中村 新善光寺/供養塔 一体

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塞の神(野村)

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2014年10月8日に津山老人福祉センターに集合して、「平成26年度 津山歴史講座 第7回(現地見学)大庄屋巡り―美作東部(加茂川流域)―美作の歴史を知る会 宮澤靖彦・多胡益治」があり参加して来ました。最初に野村の保田家に伺う為細い道路に入る手前に塞の神様が祀られていました。
塞の神
 塞の神は、「才の神」ともかく。もと境の神である。村の境や峠等に祀り、外部から侵入する悪霊を防ぐのが目的だった。
 この塞神三注は一般のそれと異なり、排仏毀釈の運動と関連がある。時代の動きに敏感で、国学に造詣の深い保田定静氏は地蔵を移し塞神を祀った。 塞神三注とは、久那斗神、まる岐神、道の神をいう

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エノキ跡(市場)

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エノキ跡/勝北町市場/町文化財(史跡)平成2年9月19日指定
  西村の県道勝北・三浦線のかたわらに、町指定文化財(天然記念物)のエノキがあった。
 樹齢200年あまり、樹高13m、この地方特有の広戸風の吹きつける方向の枝は強風にすくみ、その姿は、まさに広戸風の生き証人といわれる。
 永年の風雪に耐えたエノキも、平成2年9月19日に発生した広戸風のため倒れる。「西村のエノキ」と呼ばれて多くの人に親しまれ、幼い日の通学や遠足、奥仙の草刈り、薪とりなど、かずかずの懐かしい思い出を抱かせてくれた木であった。
 人びとの心に、いつまでも残る木エノキを、後世に語り伝えたい。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)

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植月城跡(小山城)(宮山城)勝央町

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 植月城跡 勝田郡勝央町植月中字小山(岡山の中世城館跡) 
永正九年(1512)宮山城と改名する。10㍍余りの高台のうえにあり、本丸は一三間×一三間、二の丸は一八間×一八間、北側に約一間半の築地が現存する。
 菅原満佐の四男公興が宝治2年(1248)、植月、広野の地頭職となった時築城したといわれ、植月一族の本城である。城主は公興ー安嗣ー重嗣ー重佐ー重長ー重可ー可直ー佐豊ー基可ー重直ー重豊ー重政ー基佐ー能佐ー佐峻ー佐教。
 四代重佐は菅家一族とともに京都六波羅討伐に出陣戦死す。この功で大正5年正五位の追賞をうける。(城跡に記念碑が立つ)永正9年城主基佐は、日吉神社を現在地に遷座し、本城も宮山城と改名する。三星城に味方し出陣するも、城主佐教をはじめ多くの一族戦死する。城は岡豊前守が接収、城主となる。毎年4月8日、植月一族城跡に集まり、先祖供養を盛大に行っている。(文:『勝央町誌』より)(2018年8月18日撮影)

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芭蕉句碑(津山市日本原字日本)

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 日本原神社の前にあり、建碑は弘化2年(1845)もとは、国道53号線の南側に建てられていたが、のちに北側に移され、国道改修のため、現在のところに移転した。
 芭蕉150年忌あたる天保14年(1843)に、日本原に芭蕉句碑を建てようと志していた、俳人有元渕龍(山形)が没したので社友亀由等が、其の意志を継いで建てた碑である。
 碑面に刻まれた句は、芭蕉が那須野で詠んだものであるが、日本原野の景観が、この句意に符合するところから、選ばれたといわれている。(文:『勝北町の文化財と石造美術』より)

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仁木永祐先生顕彰碑と郷校籾山黌跡

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 幕末~明治時代の医師・教育者・地方政治家として知られる仁木永祐は、東北条郡下津川村(今の津山市加茂町下津川)の庄屋豊田伊兵衛の四男として一八三〇年(文政十三)二月八日に生まれた。
 一八四三年(天保十四)、津山藩儒稲垣雪洞に入門、のち永田半眉にも師事。一八四六年(弘化三)、津山藩医村山春庵に入門し漢方と外科を修める。一八四八年(嘉永元)、東南条郡籾山村(今の津山市籾保)の医師仁木隆助の長女「たけ」と結婚、同年江戸に遊学し昌谷精渓に漢学を、また津山藩医(江戸詰)箕作阮甫や宇田川興斎に蘭学を学んだ。
 一八五〇年(嘉永三)、妻「たけ」が男子出生後母子共に没したため、翌年、分家仁木梅太郎の二女「佳津」を娶り、隆助の養子となり家業を継ぐ。医業を助けるかたわら、津山藩儒大村桐陽(斐夫)に入門、またペリーが浦賀に来航した一八五三年(嘉永六)には上坂して、後藤松陰のもとで漢学を修めた。

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