片山潜の青春ー故郷における労働と学習

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 自由と民主主義のために闘った人々の、精神的ささえともなった、戦前の革命的民主的出版物をひとりでも多くの人達に見てもらおうと、毎年「戦前の出版物展」を開催しております。
 この冊子は、同時開催で開かれた講演会「片山潜の青春・故郷における片山潜の労働と学習」河原要(片山潜記念館事務局長)氏の講演を要約したものです。なお河原氏の講演内容は、片山潜の生家や記念館を訪ねるときの参考になるものと思われます。『嵐の中の青春』林直道著と共にお読みいただければ幸いです。(文:2015年7月15日片山潜記念館だより創刊号より一部を転載)

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1.、片山潜(1859~1933)について


 片山潜の生涯は大きく分けて四つの時代的な区分に分けられるであろうと思います。
一つは出生から東京遊学まで、つまり羽出木を離れ、あるいは岡山県を離れてゆくまでの間であります。これが一つのいわゆる青春時代といいますか、在郷、故郷にいた片山潜ということになると思います。(1859年・安政6年~1881年・明治14年)。片山潜の22歳までの話です。
二つ目がいわゆる第一次の渡米、これは明治17年でありますが、1884年それから約12年間にわたるアメリカでの苦学の時代。
三つ目がこの第一次の渡米から帰国しまして大正3年、1914年ですが、最後の渡米となった第4回これまでの国内における多彩な活動の期間だと思います。その間2回ばかりアメリカに渡っておりますけれども、この間が三つ目だと思います。
四つ目が最後の渡米、これは大正3年でありますが、それから1933年、昭和8年の11月5日にモスクワのクレムリンの病院の一室で75年の生涯を閉じるまでの期間、こういうように分けられるのではないかと思います。


 また、片山潜というとアメリカかソビエトだけがその活動の中心のように考えがちなのですが、実は、オランダ、ベルギー、メキシコ、フランス、イギリス、中国、スイス、モンゴル、その他世界のあらゆる所への活動の足跡を残している。そういう非常に幅広い世界的な規模の活動をやってきたというように私共理解をいたしております。
その中で、いわゆる科学的社会主義の国際的な指導者、あるいは労働運動の指導者というだけではなく、国際的な感覚の教養人として高く評価されていたという事でございます。


 またもう一つは、これは岡山大学の最近の研究グループの方々の研究なのですが、片山潜がエール大学を卒業する時に書いた『欧米の都市問題』、この論文は今も欧米でその道を志す学究といいますか、専門家の人達から必読の書として読まれているという事をお聞きしたわけです。
 今でこそ都市経営や都市問題というのは、どこの国でも非常に大きな問題になっておりますけれども、まだ当時それほどの問題ではなかったと思うのです。けれどもそういう点にも片山潜の高い先見性と卓越した能力がうかがえると思うかわけであります。


 潜さんのお兄さんで一(はじめさん)という人がいますが、この方と養子縁組を結んでおられる桜井さん(現在、記念館の管理人)が、ちょうど片山潜が亡くなった昭和8年に現役兵としてソ満国境におられたわけですが、その時に見た新聞の隅の方に「国賊片山潜死す」という記事が載っていたという事を聞きました。
国賊というのが当時のマスコミの片山潜に対する評価であったわけです。
 当時、望郷の念の強い片山潜に対して共産主義をすてれば、早く言えば転向なのですが、そういう事をすれば日本に帰って来てもかまわないというような働きかけもあったわけですが、それにもかかわらず、最後まで筋を貫いてモスクワで死んだわけです。
 私は青春時代になりまして、片山潜という名前も聞きまして、そういう片山潜の生き方に対して強い共感と支持と敬慕の念を感じ、非常に強い感銘を受けましたけれども、このことは同時に私や地元の人達だけではなく、広く皆さん方の実感でもあっただろうと推測するわけであります。

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2、片山潜の生い立ちと学習


 片山潜が生まれたのは1859年、日本でいえば安政6年、ちょうど明治維新をさかのぼること10年前で、井伊大老による安政の大獄があった年にあたるわけです。
 片山潜は美作の国の久米南条郡羽出木村740番屋敷居住戸主薮木葭三郎の長女の婿養子国平の次男として生れております。
幼名を薮木菅太郎といいます。片山潜が生まれてから1878年(明治11年)までの約19年間、潜はここ羽出木で働き、そして学んでおります。


 私は『自伝』を読んで感じるわけですが、潜の筋をつらぬく姿勢というか、正義感の根源というのは、やはり故郷羽出木での生活と労働これが大きな要因を持っているように考えております。
 片山潜は生涯を通じて羽出木の部落を非常に自慢していたということが言われています。自らも『自伝』の中で、羽出木の人達や田園や秋の空のいろなどについて書いております。羽出木の人びと、風物そういうものに非常に愛着を持っていたようでです。
この平和で純朴な羽出木の人達・風土、こういうものが後半の潜の反戦・平和、いわゆる弱者の解放という生き様の根本を作ったのだろうと思います。そういう中で潜にいろいろ影響を与えたのが、曾祖父の吉次郎です。


 ちょっと読んでみますが「曽祖父は今に至るもなお余の師表的人物である。過去数十年間、幾多の立派な人物、敬すべき又追慕すべき人々に接し、またその教えを受けたが、いまだかつて曽祖父に代るべき者は一人もいない。」(『自伝』)というように非常に大きな影響を受けたと言っております。
このおじいさんはちょうど15才の時に薮木家に婿養子に来て、ただちに庄屋に就任して、82~83才まで生きているのですが、64年間ずっと庄屋をつとめていました。なににしても潜の幼年時代に非常に大きな影響を与えたということは、自伝を読んでもよくわかることです。

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 その他には二人の友人の名もあげております。横部松次郎、家本元康という二人は本当に終生忘れることができない。非常に多くの指導も受け大きな人格上の影響を受けたということを言っております。
家本さんは、潜が小さいころ手習にあがった家本駿河守という神主さんの息子さんかお孫さんにあたる方で、この方もそこの神主さんでした。
 片山潜はこの家本さんにモスクワあるいは国外へ出てからでも、日本のいろんな本だとか、羽出木のあるいは、近辺の民話とか、餅つき歌とか、田植え歌、炭焼き歌、こういう本を送って欲しいとか、などを依頼しておりました。
そういう書簡もありますけれども、ある方に言わせますと、潜の欲しいと依頼した本は、当時岡山あたりにはなかった。少なくとも、神戸か大阪まで行かないとなかっただろう。そういう本を遠慮なしに送って欲しいということを潜に頼まれて、家本さんは本当に忠実に大阪まで出かけて行って手に入れていた。非常に深い友情と言いますか、本当に潜が言うように彼の人格に大きな影響を与えた人だろうと思います。


 片山潜がどうして学問で身を立てようと決心したかということについてですが、この人は子供のころは非常に勉強嫌いだったということを自分でも言っております。
 お母さんはそれに反して非常に教育熱心で、潜が6才くらいの時、先程お話した家本駿河守という神主さんの所の寺子屋へ預けてやる。それでも潜が本気で勉強しないというので、少し離れた本山寺という所へ住み込みで勉強にやる。


 また、同じ時期本山寺に、大村綾夫という津山藩士の儒学者がいて、そこで漢字の講義受けさせるというように躍起になってお母さんが勉強させようとしたのですが、潜が全然勉強がおもしろくなかったと言っております。
何が原因かといいますと、習う時は1、2回習うとすぐに覚えられる。ところが自分一人で今度は机の上で広げてみると、さっぱり字も読めない。それは、意味の解らない史書であるとか、そういうものの素読、それは潜ばかりでなく誰でもそうだと思うのですが、意味も解らないのにそのまま棒読みするというようなことが全然おもしろくなかった。
それでもう勉強というものにまったく興味がなかったと言っています。その後またつづけて山ノ城にできた漢学校に行っておりますけれども、そこでも同じことでした。

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 では、そんな潜が何故学問観を変えて本気でやろうという気になったのかということです。
本日の展示会の中の片山潜のコーナーを見ていただければよく解りますが、潜の生家から峠を一つ越えたところに誕生寺というお寺があります。そのお寺の中に明治5年の学制改革によって初めて成立小学校というものができた。しかし、羽出木から誰も行く者がないし、政府むきに悪いのでぜひ、潜に入学してしてくれと頼まれて入学した。


 当時、潜は14才でした。とにかく小学校1年に入学するような年齢ではないのですが、まだ他にも17~18才という同級生もいたということを言っておりますから、これはもう学制が初めて施行されたということで、やむをえなかったのだと思います。
 しかし、片山潜はその小学校に通う中で勉強に対して自信を持ち、興味も感じたと言っております。と言いますのは、今までの学校とは違って、内容や教え方が全然違うので非常によく解る。特に潜は算術が非常に得意だったと言っています。そういう中で何をやってもよく解るし、おもしろいし、級長にもおされている。この成立小学校にかよったのはせいぜい100日前後なのですが、その中で学問に対する考え方が変わっていったのです。


 ある時、潜は仲間達にこんな田舎で勉強するよりも東京へ出て大学にでも入った方が良い。そういう事をつい言ってしまった。それで、先生や同級生から物笑いにされたと言っておりますが(当時このような田舎で東京の大学なんていうのは狂人あつかいにされているのが常識であった。)
その時一人だけ「それはそうだ。潜さんのいうのが正しい」と言って支持してくれた人がいた。
その人は「自伝」の中でも出てきますが、頼子さんという女の子で級長をしていた人ですが、彼女が潜を励ましてくれたということです。


 そのあたりの事を「自伝」で読んでみますと、「余と彼女は非常に仲が良かった。しかし、余が小学校に通ったのは前後100日あまりであったから、この同情を表してくれた愛らしき友人との交情も自然中絶することとなった。頼子の兄は余と同年配で、漢学校以来の友人であったから彼女と交際するようになったのも自然の結果である。彼女は髪の黒い、鼻筋のよく通った目のサヤの抜けた愛らしき顔つきで田舎には珍しい器量のよい方であった。そしてその性質は温順ですこぶる愛嬌にとんでいて非常に親切なたちであった。」と言っております。潜は最後に頼子さんが本当に幸せな結婚をして有意義な生涯を送ってくれる事を期待するというようなことも言っております。


 私がここへ来る前に、この方の戸籍関係を調べてみたのですが、戸籍はありませんでした。しかし、この方は潜が望んだように非常に幸せな結婚をされて有意義な生涯を送られたという事が判っております。潜が自伝の中で特に女性について書いているのは、この頼子さんの事だけです。これは潜の初恋の乙女だろうと思うのですが、この人の片山潜に対する励まし、これも潜が百姓をやめて学問一筋で身を立てようと決心した大きな原因の一つだろうと私は考えています。

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3、片山潜と学問の決意


 100日前後しか通わなかった成立小学校ですが、これも潜に「世の中は決して自分の思うようにのみいくものではない。母が本気で勉強させようと思った時には、自分はいろいろ口実をつけてまったく怠けてしまった。それが今度は少し学問がおもしろくなって、本気で勉強しようと思う時にはもう家庭の事情で学校に通えなくなった。」という事を言っています。


 潜は次男ですから、どうしてそこまでしてお母さんを助けなければならないのかという事になるのですが、片山潜の父親の国平という人は、潜が3才の時お母さんと離婚して実家へ帰っている。お母さんはそれ以後、女手一つで潜と兄のはじめさんを育てたわけですが、このお兄さんという人が、あまりできが良くなかったのではないかと潜も書いております。田んぼを売って女につぎこむとか非常に家持ちが悪かった。ですからやはり潜が兄のはじめさんに代ってお母さんを助けて働いた。
潜自身もお母さんを助けて百姓を本気でやる気で学校をやめたわけです。
家本さんや横部さんという二人の友人とのつきあいもその頃からです。
 その友人達といろいろ話し合いながら勉強した。そして書物は手当たり次第に何でも読んで算術なども独学で、そんな昔に独学で覚えられるような算術の本があったかどうかわかりませんけれども、先生についてもなかなか覚えられない算術も独学で覚えた。自分で身につけたというような事を言っています。


 ただその学問というのは目的のない学問をしてきたというわけですが、ついに一大発奮をして学問一筋の道を進もうという決心をするのですが、これは非常に有名な話です。
農閑期には、炭(木炭)を焼いて朝早くから自分もかつげるだけかつぎ(四俵)、牛にも木炭を背負わせて50丁ほど離れた大戸という村まで運ぶのですが、今の基準でいいますと15キロなんです。四俵と言いますと60キロ-16貫の荷をかつぐことになります。昔から米一俵がかつげれば一人前の若者だ。一人前の百姓だと言われていたのです。
これをふりかついで、あるいは二つにわけてかついでも50丁運ぶということになりますと、一丁が109メートルですから50丁というと約5500メートルですね。つまり一里半約6000メートル近くをこの重い荷をかついで運ぶことになるわけで、これはもう相当な重労働です。


 そこでまた『自伝』を読んでみますが、「明治10年正月下旬であった。その日は朝から重い雪が降っていた。炭俵の上に雪が積もって重くなり、蔵本の前まで来た頃は肩がチギレルようであった」と言って非常に苦しい、しかも不快なといいますか、苦しい思い出をしながら大戸まで行った。
 大戸には当時たいへん有名な先生で山田方谷という人が塾を開いていました。
つかれてヘトヘトになって、山田方谷の塾の前までくると、塾の中では、ほぼ同年代の学生達が勉強していたり、楽しく遊び談笑している。
 そういったところを見て、学問をしたいという決心を固めます。
その時は特に強く学問で身を立てようと思い、こういう労働で苦しむ分を学問に励めば、かならず大成するだろうと感じたのです。

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潜の母           潜の家族たま、安子、幹一、千代子    潜の子供 安子、幹一
※潜の長女片山やすさんは「革命家の娘」として知られ「ソ日協会」の副総裁を務めていた。


 学問で身を立てようと決心した時、それまでの疲れを忘れて非常に爽快な気持ちになったのを覚えているというふうに言っておりますし、帰ってお母さんにもそういう話をしています。お母さんにはとても許してもらえないだろうと思っていたのに非常に喜んでくれた。私の事は心配する事はないので、初志を貫きなさいと激励をしてくれた。
このお母さんというのが、片山潜が自伝の中でもたびたびふれていますが、非常に慈悲深いお母さんだったと思うのです。ただこのお母さんも潜が渡米中に亡くなっているということで、潜もさすがに落胆して、そのために日本に帰るのを延ばしたりしたというようなこともあったようです。


 お母さんに励まされてそこから学問で身を立てるために、植月の観音寺にある小学校の助教、その前には久米南町に現在もあるのですが、弓削小学校の助教をしました。、それぞれ助手なのですが、片山潜は実際に正規な学問をせずに子供に学問を教えるのは非常に大変だったと言っております。学びながら教えるという生活、そしてそこからいよいよ学問で身を立てる生活が始まったわけですが、その助教も三年くらいでやめて、岡山師範学校を受験して入学するという猛烈な勉強をしております。


 しかし、それも途中で退学をして東京に遊学に出るわけです。彼がアメリカへ留学する決心をかためたのは、東京で知り合った友人で岩崎という人に出会ったからです。この人はのちに東京の青山墓地に潜の墓を建てた人だと思うのですが、この人が先にアメリカに行って「アメリカという所は金がなくても勉強ができる所だ」という手紙を送ってきたことで、潜も渡米の決意を固め、そして無一文で渡米しています。
 以上がだいたい羽出木、岡山を離れてから潜が進んだ道であります。


 こういう中で私が非常に感銘を受けるのは、片山潜自身も言っておりますが、学問で身を立てる決心をしたことがついには故郷を辞して、はてには世界を我家となし、貧苦艱難逆境の間に他郷に生存するところの運命を作りだした最大の原因だと。
確かに世の中には苦学して勉強される方々は大勢おられます。しかし、私共が感激をおぼえるのは、そういった勉強のすべてが自分の利益、自分の立身出世のためではなくて、いろいろな思想的なこともあったと思いますが、反戦平和そして働くものの真の解放のために役立てて波乱の生涯を送ったという事です。


 そんな中で、最後の渡米をして、日本から離れてから長男の幹一さんが、慶応大学に在学中に亡くなっております。ただ彼はそれを手紙で知っただけで日本に帰って一度でも墓に参るということもできないし、いろいろな官憲の迫害をさけるために奥さんとも離婚をしています。というような非常に一言できびしいという言葉では言い表せないですが、その時の権力が人為的に作り出した通常ならとても耐え難い逆境におかれながら日本と世界の人々のために奮闘したというのが片山潜の一生なのです。
そういった逆境にも屈せず最後まで人民とともに歩み、人民と共に進歩した。これが片山潜の生涯最大の特徴だと思います。
(文:2015年7月15日片山潜記念館だより創刊号より一部を転載)


片山潜は、1859年に久米南町羽出木村の庄屋に生まれたましたが、家計困窮のため、すぐ農耕、炭焼きなどをして働きました。
このため、ほぼ独学で勉強し、明治13年に岡山県師範学校に入学。翌年、上京後、印刷工員として苦学し、明治17年、25歳で渡米。明治25年、アイオワ州グリンネルを卒業後、大学院に進みました。
明治29年に帰国し、現早稲田大学教授に就任。幸徳秋水、阿部磯雄らとともに社会主義研究会を組織し、日本における社会主義の先駆者としてその生涯を反戦、平和に捧げました。
生誕の地に建つ記念碑、その碑のそばには数々の資料を展示する記念館があります。
片山潜は遠くモスクワのクレムリンに眠っていますが、氏の遺徳を偲ぶ人が今もこの記念館を訪れています。
(文:久米南町HPより抜粋