取材記事内検索

取材記事内を検索ワード「坂」で検索した結果,294件の記事が見つかりました。

八坂神社(近長)

yasaka29.jpg

由緒 創建は弘仁十二年(821年)である。牛頭天王を奉祀(ほうし)している。明治元年に八坂神社と改称した。
主祭神 素戔嗚尊(スサノオノミコト)、例祭 10月22日、境内地 823.80坪、主要建物 本殿・幣殿・拝殿・神楽殿、宮司 豊田元留、責任役員 甲田寅夫 甲田三郎 今田鶴一 甲田頼光(文:岡山県神社誌より抜粋)2014年10月8日取材

八坂神社(近長)の続きを読む

鶴坂神社(坪井下字鶴坂)

tsuru22.jpg

鶴坂神社(大字坪井下字鶴坂1577番地)  2014年9月19日取材
 往古より久米郡北部の産土神として美作國百十二社の一つで、大井庄、中北下村三ッ高山の山上に鎮座し、吉村宮と高の村宮の二神が祀られていた。社殿も壮厳で霊験も顕著であったので元暦年間(1184-1185)梶原氏は此の社を崇敬し武達長久の祈願の為寄進する。それ以後天下が源氏の下におかれてからの國主・領主の崇敬が続き寄進奉幣は常に絶えなかったと云われている。当社恒例の大祭には苫田郡小田草の神輿も参加するのが例となっていて、毎年四月の牛の市もにぎやかであったということである。

鶴坂神社(坪井下字鶴坂)の続きを読む

日吉神社(宮部上)

hiyoshi5.jpg

日吉神社 大字宮部上
 此の社の由緒は拝殿の額によると、祭神は大山紙神で、嘉吉年間、山名教清が岩屋城を築くに当たり、その部将を派して此の地に城塞を築き、近江の国坂本から山王権現の分霊を勧請して守護神としたのが此の宮の起元である。その後兵乱により城塞は失われ此の神社のみが山上に残っていたものを、江戸中期に至って此の地方の人が之を山麓に移し、本社にならい「日吉神社」と改めて今日に至ったものである。本社は元、官幣大社日吉大社で、全国3796の分霊社の一つであるというのである。

日吉神社(宮部上)の続きを読む

行啓道路(津山市山下)

800行啓道路1.jpg

 津山警察署前約半丁許の處より、東方鶴山城址櫻の馬場に直通坂路、長百四拾三間五分・巾三間の改修道路は大正15年5月23日津山城址に行啓あらさらるる 東宮殿下奉迎のため津山町が熱誠を捧げ工費約五千圓を投じ(同年4月10日起工・同4月30日竣工)修築したるものにして、行啓の當日、生徒児童並びに一般拝観者は該道の両側及び其の付近に於いて謹んで拝観の光栄に浴することを得たり。故に人呼んでこれを行啓道路云ふ實に宜なりといふべし。因に道路改修以前は、奮城の周濠を田地となせし水田にて奮郡役所の北方は一段高き土堤の上に数軒駢列せる住宅ありしを撤去せしめ其の地を掘り下げ、以って水田を埋め田町より直線の新道を開設せしものなり。

行啓道路(津山市山下)の続きを読む

明治天皇の侍医頭 岡玄卿

oka1.jpg

 明治天皇の崩御に立ち会った医師・岡玄卿が、津山ゆかりの人物だということをご存知でしょうか。
 岡玄卿は、墓誌によると1852(嘉永5)年に津山藩の大坂蔵屋敷で生れたとされます。大学東校で医学を専攻し、1876(明治9)年に東京医学校(翌年東京大学医学部に改称)を第一期生として首席で卒業。同大の助教を経て、助教授となりました。
 1883(明治16)年に宮内省から侍医を拝命し、ドイツ留学後に侍医局長を経て侍医頭となり、1912(明治45)年の天皇崩御に立ち会ったのでした。

明治天皇の侍医頭 岡玄卿の続きを読む

第19回 津山武道祭がありました。

zentai2.jpg

 平成27年7月5日(日)、津山総合体育館において、始めてから19年目になる武道祭が開催されました。

元々は、体協なりスポ少で一緒になる武道団体が懇親会を開いた時、同じ武道団体が一緒になって何かデモンストレーションでもしたらどうかという意見がどこからともなく出て、それはいいことだ、是非やろう ということから文字通り「0(ゼロ)からの出発」で、お互いに手作りで始めたのがきっかけでした。

 あれから19年、津山市内で活動している武道7団体(柔道、剣道、空手、合気道、弓道、相撲、少林寺拳法)が一致団結して毎年この時期に開催しています。

(文:津山少林寺拳法 畝岡文隆様、写真:津山合気道連盟 仁木富士夫様・津山少林寺拳法 畝岡文隆様)

第19回 津山武道祭がありました。の続きを読む

国指定史跡 三成(さんなり)古墳(大字中北下)旧久米町

san23.jpg

三成古墳の復元整備について
 三成古墳は、昭和53年に行われた発掘調査によって、美作地方の古墳としては、例がすくなく貴重なものであることがわかりました。このことから昭和54年10月、国の史跡指定を受け、史跡内用地を買収し、国および県の補助により57年度に復元整備を行いました。
復元計測によって得られた数値をもとに墳丘を復元し、地中より発見された石棺は埋め戻して、地上に同じ材質の模型をつくりました。また、あわせて説明板や標柱、歩道などを設置し見学の便宜をはかっています。

国指定史跡 三成(さんなり)古墳(大字中北下)旧久米町の続きを読む

寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町

mitsu2.jpg
 寺院の縁起と開山
 真言の教は、古く平安期の昔より美作の各地域に布教され、多くの人たちに心のよりどころとして信仰されていた。
 伝によると元弘の頃(1331)、大井庄坪井の地には真言の教が浸透し、衆徒法悦、そして寺門隆盛となり、寺城の地に寺坊十二ヶ寺も存在していたと言われている。
 その隆盛の姿は現在総門の跡と考えられる仁王堂、梅ヶ坪御堂、また寺向、寺奥等の地名が残り往時の寺院仏閣の壮大さが偲ばれるのである。
 中世における度々の戦乱により、寺院仏閣は兵火を被り衰退したが、真言の教は人々の深い信仰により絶えることなく続いていた。

寺城山 密厳寺(大字中北下)旧久米町の続きを読む

「現代の浮世絵師」と言われる立原位貫作品展(M&Y記念館)

my6_14.jpg
「現代の浮世絵師」と言われる立原位貫氏。 ▲「風来壮日」平賀源内をモデルにした作品です。
彼は、下絵、彫り、摺りを一人でこなすだけでなく、江戸時代の浮世絵の技法や絵の具、紙にこだわり、当時の浮世絵の姿や色を復刻作品として再現してきました。同時にオリジナル作品も多数制作しています。
当館では、コレクションの中から毎年テーマを決めて立原氏の作品展を実施し、浮世絵の技法による版画の魅力を紹介しています。
今年度の展示では立原氏の最新オリジナル作品を展示します。
さまざまな題材を江戸時代の浮世絵の伝統技法で制作する立原氏。彼が作り出す現代の浮世絵とはどのような作品となるのか?
立原位貫の生み出す美の世界を楽しんでいただける作品展です。

「現代の浮世絵師」と言われる立原位貫作品展(M&Y記念館) の続きを読む

大倭村 村社 八幡神社(津山市南方中)

hachiman4.jpg

由緒沿革 創立年代は詳かでない初の折居神社又は折居八幡宮と稱へて居た。
寛平四子年再建したが慶安4年11月火災のため神器奮記全く焼失して傳ふるものがない後寛文元年假宮を建て元禄二巳年9月10日と正徳3年8月と天文2年5月との三回に建立又は修繕して今日に至った。
明治12年9月22日村社に列し大正4年10月村内無挌社八坂神社及稲荷神社を合祀した。
社殿 本殿梁行4尺 桁行4尺5寸(元文2年建設)、拝殿梁行2間半 桁行3間 幣殿、神庫(以上明治11年建設) (文:『久米郡誌』より) 2014年3月29日取材

大倭村 村社 八幡神社(津山市南方中)の続きを読む