後醍醐天皇御駐輩伝説地(津山市種)

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後醍醐天皇御駐輩伝説地(2015年11月11日撮影)
元弘2年(1332年)3月鎌倉幕府打倒の計画に失敗した後醍醐天皇は、幕府の武士らに護送されて隠岐島に配流された。天皇の一行は京都を発って、山陽道を経て、姫路付近を出雲街道にとり、杉坂峠を越えて、美作に入った。そこにしばらく滞在したのち雲清寺というところに至った。この雲清寺が、ここより東方、約300メートルに碑があるあたりと考えられている。その東約100メートルには、昔からいかなる千害にも絶えることのない清水があり、天皇はそこで顔を洗ったと伝えられる。今も地元の人々は洗顔清水と読んでいる。再び輩の人となった天皇は、この峠を越えるとき遠望する山が古歌に名高い久米のさら山と聞き、自らして筆をとって詩を
 聞きをきし久米のさら山越えゆかん
  道とはかねて思ひやはせし  と詠んだ
 こののち、天皇は院庄に入って、児島高徳のひそかなはげましを受けた。そして再起を期しつつ隠岐に旅立っていった。この非運の天皇をしのび、大正15年土地の人々によって、顕彰碑が建てられ、先の歌を刻み、後醍醐天皇御駐輩跡として後世に譲り伝えている。
 平成21年11月8日 さら山時代祭実行委員会 種町内会御駐連場(文:案内板より)

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佐良山のふしぎ(その3)
 押渕・下種・荒神山を経由して種から皿に至る旧出雲街道には後醍醐天皇にまつわる史跡が点在しますが、その中で「御駐輦場」と呼ばれる場所があります。ここには後醍醐天皇が隠岐島にご配流の際「輦」を止められ休まれた場所として、種地区の人たちの手で整備され、立派な歌碑が建てられています。歌碑には「後醍醐天皇御製 ききおきし久米のさら山越えゆかんみちとはかねて思いやはせし」と刻まれています。
 この歌は佐良山の人たちは誰でも知っている歌ですが、今回のテーマはこの碑が、いつ、どのようにしてここに建てられたかを調べてみようということです。
 ます、種の町内会長の吉村さんと八木さんをお訪ねしてお話をお伺いしました。
 お二人からお聞きしたお話によりますと、まず大正15年に「後醍醐天皇御駐輦史蹟保存会」という会が結成されます。この会が結成される以前にも同じ動きがありましたが、途中で立ち消えになり、再度の結成でした。

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後醍醐天皇御駐輩跡の案内板

 余談になりますが、結成間もなくこの会の名称が「後醍醐天皇御遺跡建碑保存会」と改称されたようです。碑の下段に刻まれている名称も「通輦之祉」とあります。「輦」を留められたのか、ただ通過されたのかの違いだと思いますが、史実に照らす議論があったのかも知れません。
 さてこの会は、24名の発起人と錚々たる人が名を連ねる16名の顧問と108名の賛助員をもって大正15年1月華々しく発会します。この会の最初でかつ最重要な仕事として、建碑に要する資金集めでした。目標額は2600円、現在のお金に換算すると240万円程になります。結果は、会員の皆さんのご努力の賜で集まった浄財は、なんと3564円15銭、現在のお金に換算すると329万円程になります。寄付帳をみると、地元福岡村はもちろん佐良山村、そして東京市の元大臣、貴族院議員、衆議院議員等が名を連ねます。そして特徴的なことは英田郡、苫田群を始めとして県北のほとんどの小学校から寄付が寄せられていることです。時代の違いを痛感しました。

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 次に碑石について、この立派な石はどこにあったのかという点をお聞きしたところ、洗顔清水の東にある「太平池」の傍らにある八木さんの水田の畔にあった石だということでした。
何故このような立派な石が水田の畔に転がっていたのかについては誰もわからないということです。また、その石を建立の場所までどのようにして運んだのか、どのようにして建てたのか等々一切不明とのことですが、建碑にかかった人歩は361名とのことです。碑石は八木万次郎さん、台石は日笠真澄さんの寄贈とメモしてあります。碑文の揮毫は「正五位勲四等阪正臣謹書」と刻んであります。
碑の製作は領収書を捲っていると、鞍懸さんの名前がありまあしたので、鞍懸石材店で製作されたものと思われます。

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下の写真は広報さらやま平成22年12月1日発行の記事から

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左から、完成記念の頃、歌碑、太平池、雲清寺碑

 左の写真は完成記念として配られた葉書の一枚ですが、現在の鬱蒼とした森からは想像できない広々とした空間に建立されています。さて出来上がったのはいつという点ですが、これも領収書を捲って、三宝七台納品というのを見つけました。紅白饅頭もありました。大正15年の10月中旬のXデーを当時の暦から調べると10月17日に落ち着きました。12月25日には昭和が始まります。大正の最後を飾る大事業だったのだなと感慨を新たにしました。
 昭和3年の5月には碑の西側に記念館も建設されています。現在は土台の枠しか残りません。
 また後醍醐天皇が「久米の佐良山」の歌を詠まれたとされる「雲青寺」の碑も昭和6年に碑から300メートル東に建てられました。
 後醍醐天皇のご配流の道すがらには幾多の伝説が残りますが、このような立派な碑が建てられている場所を知りません。福岡村大字種という小さな集落の人たちの思いが大きな流れを作り、このような立派な碑が建立されたことに敬意を表する次第です。(文:広報 未来ビジョンさら山より)

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御駐輩跡の附近(2015年11月11日撮影)

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(2017年6月11日撮影)