サムハラ神社(加茂町中原)
織田信長の安土城が出来た年である天正9年(1581年)今の津山市加茂町中原にある日詰山に築かれた落合城に羽柴秀吉の家臣木下備中守宮部善祥が駐留していました。
落合城 http://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/ochiai-jyo/
落合城にサムハラと神字で書かれた石碑がありました。
その石碑を拝み、その神字を紙などに写して身に付けた武者は矢や鉄砲の弾が当たらないということで熱心に拝まれており、さらには災厄除けとして拝まれていました。
その後本能寺の変で織田信長は世を去り、羽柴秀吉は豊臣秀吉となり太閤となり、さらには関ヶ原の戦いで徳川の天下となり江戸時代が1868年まで続きます。その300年間もサムハラの護符は地元の人々に信奉されていました。
そして江戸時代が終わった明治元年、サムハラの石碑の地元に田中富三郎が生まれます。田中少年は地元の他の子どもと同じくサムハラを信奉していました。そして青年となり徴兵で日清日露戦争に出征。特に日露戦争ではロシア軍のトーチカでの機関銃攻撃による激戦で多くの犠牲者がある中、田中富三郎青年は無事に生還。田中氏はこれは郷里で子供時代から信奉していたサムハラの護符を身に着けていたお陰だと信じました。
その後田中氏は大阪に出て事業で成功。自分を育ててくれた郷里に恩を感じ郷里にある小学校の加茂西小学校に毎年のように寄付を行い、加茂西小学校には豊かな設備と蔵書が整うようになりました。
一方田中氏は自分がこのように事業で成功できたのもサムハラの護符のお陰で生き残れたからだと考えます。そして昭和10年(1935年)彼の郷里の日詰山の金比羅神社近くにあって荒れていたサムハラの祠を復興。さらに大阪市立売堀にサムハラ神社を建立します。そして復興した郷里の祠は奥の院として大阪にある神社の発祥とします。当時の日本は満州事変や日華事変に巻き込まれる中にあり、徴兵後に戦地に出征する若者が多くいました。その若者たちは千人針という多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念した弾が当たらないというおまじないの布を持って出征しました。そういう時代の中で、織田信長の時代から矢よけ弾よけのサムハラの護符であるサムハラ神社のお守りも多くの出征兵士が身につけました。
その後太平洋戦争終戦。しかしサムハラの護符は戦争が終わっても事故除け災難よけとして珍重されました。そして田中富三郎氏は富三郎爺といわれる年になっても毎日大坂のサムハラ神社に出向き、郷里の加茂西小学校に寄付を続けました。そして昭和42年(1967年)に数えの100歳で世を去りました。
その後も大阪のサムハラ神社は事故除け災難よけとして信奉者を集めていました。そして平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災が発生。津波によって北関東から東北で潰滅的被害を受けます。1000年に一度という未曾有の大災害。科学技術では世界一の先進国といわれる日本であるのに2万人以上の行方不明者という現実。これによって日本人も大自然の力を前に謙虚にならざるを得ませんでした。またそういう大津波の被害がある中でも、被災地域にあるにもかかわらず古来からある神社には津波が及ばなかった、また古来の神社は津波が及ぶぎりぎり外側の場所に建てられ津波被害の境目の目印のようになっていたことも明らかにされてゆきました。日本が被災地復興に一丸となる中で、そういった昔の人々の経験に培われた叡知が神社建立に込められていたことを多くの日本人が意識するようになりました。
そのような背景でサムハラ護符とサムハラ神社も脚光を浴び、特にインターネットユーザーでサムハラ護符とサムハラ神社について詳細に調べて公開する人が増えました。そして大阪のサムハラ神社だけではなく、その創始者である田中富三郎氏とその故郷にあるサムハラ神社奥の院も注目され、さらにはサムハラの起源について研究する人も少なからず出てきておられます。こうして岡山県津山市加茂町中原の日詰山の金比羅神社近くのサムハラ神社奥の院にも、わざわざ何百キロも離れた京阪神や九州からお参りに来られる方々が来られるようになり、今に至っております。
近くには加茂の金刀比羅神社があります。(取材2015年9月15日)
(お問合せ:津山市加茂町中原 原田章充)